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日本文化に内在する「中国」

 

東京・浅草寺境内 今やここにもいろんな人種が入りまじる。アジア人であれば、なんの不思議もなく「袖振り合うも他生の縁」となる

高い文化が流れ着いた先

中国の街の中を日本人が歩いていても、日本の電車に中国人が乗っていても、同じような服を着ていれば恐らく言葉を話さない限り見分けがつかない。明らかに欧米人やアフリカ人とは違う。

それは単に肌の色とか着ているものの違いというより、共有する文化の問題だろうと思う。日本は基本的には中華文化圏である。

ほとんどの文化は中国から学び移入してきた。この150年の間に中国より西洋文化を一歩先んじて取り入れたとしても、その根底にあるものは中華文化であることに変わりはない。なぜなら、米を食い、漢字を用い、東洋的作法にのっとった生活が一番ホッとする中華文化圏の一員だからである。高層マンションに住み、パンを食べ、牛乳を飲んで、ベッドでパジャマを着て寝ていたとしても、西洋人にはなれないのである。

もし国家という概念がなければ、日本人も中国人も普通にお隣さんであり、話し言葉が通じなくても、字さえ知っていれば漢字1字「笑」と書けば誰も殴りかからないはずである。

北京・三里屯 ここに日本人がいても気づく者はまずいない。21世紀に入ると着ているもの、持ち物さえ世界同時流行である(写真・広岡 純)
このシリーズでは、日本の中の中国文化、中国の中の日本文化を取り上げる。ただし、世界の四大文明の発祥地の1つである中国に果たして日本の文化がどれほど取り入れられたかは、想像に難くない。ほとんどが清以降のこの130年程度のことである。

もちろん、朝鮮半島からも大量の人と文化が日本に流れてきた。しかしそれも半島独自の文化というよりは中華文明の一部というべきものである。白村江で百済・倭の連合軍が新羅・唐の連合軍に敗れ、半島が新羅によって統一された669年以降は、日本は政治も文化も朝鮮半島を通さない中国大陸との直接ルートを持つ必要に迫られる。遣唐使の派遣は日本にとって必要な選択であった。

私たちはつい「日本が」「中国が」と言ってしまうが、これはあくまでも近代になって国家という概念が生まれ、それに基づいていうのであり、その裏には政治体制を持つ国があり、国境で画された領土があり、国旗と国歌が国民に国を意識させる。しかし、これから話題にする日本と中国との文化の交流に関する話は、「天下」を中国の歴代皇帝が支配していたころの話である。文化には国境もない。河が高きから低きに流れるように、文化とは無縁だった人々に憧れをもって真似され学習され、やがて独自の要素を織り込みながら固有の文化に仕立て上げ、代々伝えられていく。

中国大陸の文化は黄河・長江流域文明という大きな坩堝の中に華夏文化を中心に多くの異民族文化を飲み込みながら築かれたものである。

日本と中国との位置

和服姿の女性 日本髪を結い、唐傘をさし、下駄を履く。どこを見ても立派な日本人だが、そのほとんどが中国となんらかの関わりがある
農文協の『図説・中国文化百華』シリーズでは、中国と日本との文化の関わりをいろいろな角度から取り上げている。日本列島の文化は確かに中国の文化の影響を色濃く受けてはいるが、中国の文化のすべてを日本に取り入れたわけではない。取り入れないというのも1つの選択であり、なぜ受け入れなかったかに日本と中国との文化の違いを垣間見ることができる。例えば、『天翔るシンボルたち』(張競著)で取り上げられた幻想動物は実に数多くあるけれども、その内のいくつが日本でも生きつづけただろうか。龍や鳳凰、麒麟といったものは知ってはいるが、日本に根づいてはいない。

日本人は恐らく「日本」あるいは「和」が前につくことば、例えば「日本茶」「日本料理」「日本舞踊」「和服」「和紙」「和歌」は日本独自の文化だと思うだろう。ところが日本人の手によって独自の文化的要素は加わってはいるが、このほとんどが「中国」から入り「中国」「唐」を意識して名づけられたもので、日本文化の一面に過ぎない。『漢字の文明 仮名の文化』(石川九楊著)では、「和」を疑へと述べて、いたずらに「やまとごころ」が日本古来からあったなどという幻想にとらわれる危険を論じている。

九州の志賀の島で発見された「漢委奴國王」印については多くの日本人は歴史で習っているが、これは中国の史書『後漢書・東夷伝』に記述のある漢の光武帝の時代(西暦57年)に授かったものといわれる。中国の皇帝から「あなたを漢の奴国の王」として認める、つまり漢の政治体制下に入り、漢の版図に入ったことの証しでもある。王と認められるためには少なくとも、皇帝に漢文で「上表書」というものを書かなくてはならない。王の周りに何人かの漢文が分かる人間がいてそれに頼んで書かせたぐらいでは皇帝は金印など渡すわけがない。この王が確かにその国の実権を把握しており、ちゃんとした政治体制があり、文化の程度もしっかりしているというのが皇帝に伝わっていなければ、下賜されることはない。つまり紀元前後の日本列島にはすでに漢字の読み書きができ、ある程度の中華文化を持った支配層がいたことになる。

時代が下って3世紀ころの邪馬台国の女王といわれる卑弥呼の時代、大陸は三国時代(220~280年)で、邪馬台国は魏の明帝に朝貢し「親魏倭王」の称号と金印をもらっていた。歴史学者の森浩一さんが言うように「卑弥呼の庭では中国語が飛び交っていた」のかも知れない。もちろん、そのころの日本列島の人々がすべて中国語を話していたということではない。

したがってこのころには日本人の好きな納豆や豆腐の味噌汁なるものは、まだ存在せず、玄関のある家に住み、畳の部屋で炬燵に入るなどといういかにも日本的な生活はどこにもなかったはずである。納豆はいかにも日本的な食べ物に思えるが、歴史的には中国の北宋・南宋(960~1279年)から僧が持ち帰って一般に広めたといわれ、豆腐も奈良時代(710〜784年)に遣唐使が持ち帰ったといわれている。

いずれにしてもこのような文化が伝来し、日本になじむのは鎌倉後期から室町、江戸初期(1280年ごろ~1600年ごろ)にいたるころである。農文協の『日中を結んだ仏教僧』(頼富本宏著)によれば、このような日本人好みの文化を運んできたのは禅僧たちであったという。

文化伝来の道「ブックロード」

浅草寺の雷門 修学旅行や東京見物では欠かせないところだが、浅草寺の本堂・五重塔は1945年の東京大空襲で焼け、戦後再建された
このように日本の文化の中に占める中国伝来文化は確かに相当なものではあるが、どのようにして伝わってきたのだろうか。

当然、渡来人とともに伝わってくるのであるが、そのような民間の交流とは別に、大がかりな文化の輸入が時の権力者によって画策され、死を賭した人々の熱意によって日本列島に運ばれてきたのである。

『おん目の雫ぬぐはばや』で鑑真和上の渡来と業績を活写した王勇教授がいみじくも言ったが、「シルクロード」「ライスロード」「アイアンロード」と文化の流れはいろいろあるが、もう1つ「ブックロード」があるという。

日本はこの「ブックロード」によってとてつもない最新文化を輸入し、それをむさぼるように読み、書写し、伝えながら、自家薬籠中のものにしていったのである。

今も残る鑑真 和上の将来品のリストを見れば、和上の業績もさることながら、将来品が日本にもたらした文化も相当なものであり、しかもこれらの品々が当代の中国の最新文化である点が日本にとっては幸せであった。なぜなら陸続きであれば雑多なものも混じるが船に積むとなれば、そこに選択という篩が加わり、その分無駄が省けるからである。しかも鑑真は度重なる難破のために、その都度新たな将来品を調達している。

しかしなんといっても最大のブックロードは、「遣唐使船」である。630年から894年に中止されるまで約260年で計19回といわれる遣唐使船は、国の正式な外交使節ではあるが、書籍の調達をも目的にしていたのであるから、現存するリストを見れば果たした役割は明らかである。

僧が果たした仏教以外の業績

鎌倉・瑞泉寺 夢窓疎石を開山として創建した寺。夢窓疎石は、渡来僧の一山一寧 や蘭渓道隆と関わり、足利家の内紛では調停を行うなど、僧というより政治・経済など多くの分野で活躍した

僧は経を読み念仏を唱え布教をするから、普通には宗教活動が彼らの仕事と思いがちだが、その根本は知識階級だということである。経を読むためには字を識らなくてはならない。写経もする。書いている内容が分からなければ布教もできない。

日本では、僧は文官であり法官であり、最高学府を出たインテリ集団である。したがって日本には科挙の制度も、文官制度もないし、貿易実務や戦争の調停役まで僧が担ってきた。

中国大陸にモンゴル帝国が侵入し大都(北京)に元朝が成立する(1271年)と、大陸から禅僧が新しい宋の言語と語彙、文字と文学と学問を携えて日本に亡命してくる。これが鎌倉・京都に禅宗・五山文化を築き、現代に通じる新しい日本語と、今ある日本の文化の基礎をつくるのである。日本人がもっとも日本的と考える「豆腐の味噌汁に納豆ご飯を畳の部屋で炬燵で食べる」という図もこのころに形成される。日蓮や親鸞が布教活動で民衆に語りかけた言葉が、現代日本語の基礎になっていく。

近代日本が作った語彙が中国へ

日本は明治維新によって、西洋近代化の波をもろに被る。ちょんまげを切り、洋服を着て靴を履き、畳の生活から洋館での生活に変えただけではなく、鹿鳴館という国営のダンスホールを造るまで西洋ににじり寄っていった。米国やヨーロッパに数多くの留学生を送り出して新しい学問と科学技術を学ばせた。ところが一番困ったのは、新しい技術や思想を表す言葉がないことである。福沢諭吉や西周らは苦慮して漢語を用いてつぎつぎに造語していく。もともと日本の武士階級は幼少より四書五経など中国の古典を必須の教養としていたため、造語された言葉は中国人にもすんなりと受け入れられた。現在使われている科学用語や、社会科学用語のほとんどは当時の造語である。例えば、経済、社会、文化、法律、軍事、生物、進化、条件、列車、科学、作用など。

日本はこの後西洋に負けじと富国強兵を標榜し、植民地確保から、侵略という誤った道に進んでいくのである。(広岡 純=文 若杉憲司=写真)

 

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