『生きていく日々』 (天水围的日与夜)

監督 許鞍華(アン・ホイ)

2008年 91分 2008年東京国際映画祭上映作品

あらすじ

香港郊外の公団住宅に住む貴姐は、夫を病気で亡くし、高校生の独り息子家安と二人暮らし。近所のスーパーの果物売り場で働いている。同じ公団に越してきて、やはり野菜売り場で働き始めた独り暮らしの老婦人と顔見知りになり、ちょっとした手助けをしたことから親しくなる。

貴姐は中卒で女工として働きに出て、二人の弟を大学まで出した。だが、そんな自分の苦労話や愚痴はまったく口にせず、毎日淡々と暮らしている。高校生の息子の家安の成績は可もなく不可もなしだが、貴姐は息子の成績や進路にも恬淡としている。

一方、老婦人はひとり娘が亡くなり、娘婿が再婚したため、孫のことが気がかりでならない。そんな彼女に付き添って貴姐は一緒に孫に会いに行くが、娘婿は明らかに迷惑そう。結局、孫にも会えず、土産も断られ、しょんぼりして帰る老婦人の手を何も言わずに握る貴姐。

月餅の引換券を届けに来た貴姐の上の弟は、家安と二人きりになると、こう言う。「香港の大学に受からなければ、外国に勉強に行かせてやる。姉さんのしてくれたことを思えば、そのぐらい当然なのだから」と。

中秋節の夜、貴姐と家安は老婦人と3人で家族団欒の食事を取る。

解説

私は香港映画はあまり好きではないのだが、アン・ホイの作品だけは例外。何も事件は起こらず、見目麗しいスターも出てこない、この香港映画を何度見たことだろう。見るたびに、しみじみと人生とは何かを教えられる思いだ。困っている人を見れば気安く声をかけ、さりとておしつけがましくなく人助けをする貴姐。死んだ夫を思い、時にしんみりすることはあっても、誰にそれを訴えるでもなく、淡々と慎ましく暮らしている。身の丈を知るとはこういう生き方を言うのだろう。実家の家族親戚とも、べたべたするでもなく、さりとて冷たくもなく、適当な距離を置いて付き合う一方で、孤独な独居婦人には温かい思いやりを示し、家族のようにいたわる。うーん、私も貴姐を見習いたい。こんな母親だからか、息子も親に反抗するでもなく、家事も手伝うし、あまり機転が利くほうではないが、素直で優しい。子は親の背中を見て育つのである。アン・ホイも還暦を越え、老いのしまいかた、ということを考える年になったのだなあ、と思う。いい映画である。

見どころ

天水囲というのは香港の新界にあるニュータウンで、低所得者層が住む地域ということもあり、犯罪や家庭内暴力、自殺者が多く、「悲情城市」と呼ばれているそうだ。そういうわけで、アン・ホイの同じ天水囲を舞台にした『天水囲的夜与霧』も家庭内暴力がテーマだという。それはともかく、そんな地域の日常を描いたわりには、ほのぼの系であるこの作品では、普通の香港映画があまり描かないリアルな香港の一面をうかがい知ることができて、興味深い。

例えば、高校生たちがキリスト教伝道の集まりに定期的に参加して、お菓子や飲み物、異性とのおしゃべりを餌に、家族愛だの隣人愛だのを説教される。偽善的なまでに親しみやすい笑顔をふりまくリーダーの若い女性は、愛想もなく、めったに人に笑いかけたりしない貴姐と息子や老婦人と対照的。このへんに監督の皮肉が感じられる。人間関係の希薄な米国社会では、キリスト教の集いが人との触れ合いを求める格好の場となっているそうだが、香港社会もそうした場を求める必然性が増えているのだろう。

貴姐のような女工が香港の経済成長期である1960~70年代を支えたという香港の現代史も垣間見えて、淡々と庶民の暮らしぶりを描きつつも、この映画は実は見事な香港史にもなっている。その脚本を書いたのが、まだ20代の女性だというのには驚いた。本人の実体験を踏まえているそうだが、同じように1997年以降の香港を描いたという男性脚本家、男性監督による『傷だらけの男たち(傷城)』の嘘っぽさとの何たる違いだろうか。男性はロマンに走り、女性は現実を見すえるということだけではない気がする

 

人民中国インターネット版 2009年12月

 

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