現在位置: 中日文化考
浦島太郎が持ち帰った玉手箱

広岡 純=文・写真

天安門広場に並ぶ山車。新中国成立60周年を祝った余韻が残る

日本人の五感を豊かにした渡来文化

「中日文化考」も今号が最終回になる。日本と中国とはこれまでみてきたように、いろんな分野というよりあらゆる分野で密接なつながりをもってきた。家永三郎は『日本文化史』で「7、8世紀が隋・唐文化の輸入につとめた時代であったとすれば、13、4、5世紀は宋・元・明の文化輸入の時期であったといえる。しかも少数の支配階級のみに巨大な権力が集中していた7、8世紀の時代には、大陸文化の輸入は外的に花やかに見えても、その影響力の及ぶ範囲が狭かったのにたいし、民衆の地位の向上してきた13、4、5世紀では、外来文化の影響は、表面それほどではないにもかかわらず、もっと日本人の生活の実質に広い影響をあたえるようになってきたのである」と述べ、例として木綿が日本に輸入され綿が栽培されるようになったことや瀬戸物の普及を挙げている。そして、柳田国男の表現を借りて、「それまで麻やコウゾのようなごつごつした繊維か、絹のようなぜいたく品しかなかった日本に(木綿の)柔らかな肌触りと心地よいふくよかな衣料の快い圧迫感は、日本人の肌を多感にした」。また「瀬戸物が普及したことによって、白く光りある米を茶碗というものに盛り、朝夕手の裡にとって見ることができるようになった。これまでのように木のお椀のような使い始めた日から汚れるものとは違った、かちりと前歯に当たるほのかな響き…」と記している。つまり中国から木綿や瀬戸物が伝来したことによって、日本人は一般庶民レベルまで五感が研ぎ澄まされ、精神生活を含めて豊かになったという。テレビの普及によって日本中が平均化されたように、新しい文化は日本の庶民生活を一変させ、肌(触覚)だけではなく、視覚・味覚・嗅覚・聴覚までを刺激し、育んだことだろう。

中国で2004年に発見された井真成の墓石文  坂本龍馬

坂本龍馬や高杉晋作がむさぼり読んだ中国訳書

前号で、明治前後に日本語から中国に逆輸入されたことばに関して書いたが、中国で訳出された中国語の科学技術書が、そのころ日本に続々移入され、大いに日本を啓蒙しその訳語が科学振興と新しい言葉の創作に役立ったことも事実である。たとえば、武田楠雄の『維新と科学』には、「現に日本は幕末維新期を通じ、非常に多くの西欧書の中国訳書の御厄介になっている。それは『万国公法』一つをとってみてもわかる。この一書がどれだけ坂本龍馬や大隈重信をふるいたたせたことか。新島襄・前島密の場合はどうだったろうか。高杉晋作や中牟田倉之助が幕府の買上げた256トンのボロ船アーミスチス号で上海に渡ったとき(1862年)尊大無礼な白人の態度に憤慨しながらも、彼らがむさぼるように買い込んできたものは、これらの白人と共同戦線を張る白人宣教師の手になる中国著訳書の数々ではなかったか、自然科学の輸入や啓蒙の大部分が中国訳書によったこともいうまでもない」とある。また「これほどの中国からの書籍の大量投与がなかったならば、文明開化も半ば半身不随化したことは間違いない」とし、中国の洋務運動や中国宣教師の活躍をあえて無視した原因を、中国からの移入は親のすねでもかじるように当然と考えていたこと、やがて近代化の過程で日中間に出てくる差への誇大な自信からくる中国蔑視、自己陶酔のため、中国を正視できなかったことによると断じている。日本は明治維新後の文明開化や科学新興、ひいては富国強兵に到る道程でも、やはり中国のお世話になっていたのである。

時間と距離を埋めた人々

文化は高きから低きに流れるが、伝わる速度は必ずしも一様ではない。やはりただただ待っているだけでは、相当に時間がかかる。この時間と距離を縮めたのは、やはり人間である。鑑真や「入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)」はあまりにも有名だが、実際には歴史上に名を残さなかった人も数多くいたであろう。遣隋使や遣唐使は国が派遣した立派な使節であるが、ほぼ半分が往復の途上で遭難したり病死したり脱落したという。現在、輝かしい成果とともに名を残しているのは相当の強運の持ち主と言うほかはない。「入唐八家」というが、大業を成し遂げた八人というほうが正確である。

例えば、2004年に西安市内の工事現場で墓誌が発見された日本人留学生・井真成は、それまで歴史に登場さえしなかった。正式な官僚として唐の朝廷に仕え、抜きん出た活躍ぶりだったが病気で亡くなった。皇帝も大変残念に思い、特別な扱いで埋葬したと記されている。墓誌があるということは、当時は相応の名のある人物だったのかもしれない。

正倉院に残る囲碁盤 玄宗皇帝

遣隋使小野妹子(生没年不詳)に従い隋へ渡り、仏教のほか易学を学んだ日文(「旻」とも。? ~653年)は、隋に24年間滞在した。また、同じく高向玄理(?~654年)と南淵請安(生没年不詳)は、隋の滅亡(618年)から唐の建国の過程を見聞して、640年に帰国。隋・唐の進んだ学問知識、制度を日本に伝えたが、滞在したのは32年間であった。

弁正法師は702年遣唐使として留学。皇太子時代の李隆基、つまり後の玄宗皇帝(在位712〜756年)と囲碁を通した深いつきあいがあった。道教にも造詣が深かったが、後に還俗して唐の女性と結婚し、子を設け、帰国することなく唐の地で没した。皇帝の碁の相手をするという形で、日本人が長安の朝廷に「人脈」を持っていた。つまり今でいうロビイスト的存在で、日本側にもさまざまな便宜があった。秦朝元は、弁正法師の次男である。718年遣唐使とともに日本に帰り、中国語通訳養成の教官になる。732年には遣唐使に加えられ、玄宗皇帝から「父との縁故をもって」厚遇され、遣唐使の一行もその恩恵にあずかった。

羽栗翼の父は、遣唐留学生阿倍仲麻呂の従者として渡唐した羽栗吉麻呂である。唐の女性との間に生まれ、734年に16歳で日本に帰った。遣唐録事となって再度遣唐船に乗り入唐。本草学に詳しかったため、786年には内薬司正兼侍医に任じられ、天皇の側近となって皇室の医療を担当した。

琵琶の名手であった藤原貞敏(807~867年)は、835年の第17次遣唐使の随員として唐に渡った。長安で琵琶の名手・劉二郎に「流泉」「啄木」などの妙曲を学び、その娘と結婚して帰国したという。正倉院の紫檀製の螺鈿などの豪華な装飾を施した琵琶は、彼が持ち帰ったものといわれる。

 

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