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河姆渡(下) 目をみはる建築文化
 

【村落、井戸、舟と櫂、古い渡し場】

列になった木の杭の遺物から、ここには少なくとも欄干式の木造長屋が三棟あり、村落であったことが分かる。  遺跡を踏査して木板の桟道を見物していた我々を姚副館長はわざわざ北西角に案内した。彼は芝生の中央に積み重なっている木の杭と枠を指しながら、「専門家がここで底の部分が削られて尖った木の杭と長い丸太を200点以上発掘した。ここは、もと鍋底状の水たまりで、先住民はここで水を汲み飲んでいたが、その後干ばつで水が汲めなくなったため、井戸を掘って水を得るようになった。しかし、井戸の壁が崩れ落ちたため、井戸の四周の壁に垂直の木の杭をぎっしりと打ち込んだ。同時に28本の丸太を使って方形の木枠を組み、井戸の壁の崩れと杭の倒れ込みを防いでいる。それから、古井戸の周辺から出土した柵杭や、放射状の細い丸太と残存するアンペラから、おそらく当時井戸の上に東屋が建っていたと思われる」と言った。

 面白いことに3000年前の『周易』に、「木上に水あり、すなわち井」とある。後世は石やレンガを積み重ねた円形井戸がほとんどのため、歴代の学者たちは、この種の「木の上に水あり、井戸と為す」という解釈を巡って、さっぱり分からないため論争が続いていた。この河姆渡の木造の井戸の発見によって、文字争いにけりがついた上、「井」というこの象形文字に、より具体的、より正確な認識を持つことができた。  博物館に陶製の舟が展示されている。長さ7.7センチ、幅2.8センチ、高さ3センチ、流線型の船首の小さな板と紐を通すための小さな穴がある。この小ぢんまりとした巧みな陶船は、河姆渡人がすでに石斧と石の手斧などで丸木舟を彫っていたことが明らかである。博物館には木製の櫂四本が展示されている。6,7000千年前にすでに舟運があったことを立証している。その内の一本の、ほぼ完全な木の櫂は、一本の原木で作ったもので、外形は木の葉のようである。残っている部分の長さ63センチ、葉の部分は楕円形で、長さ50センチ、幅12.3センチ、厚さ2.1センチ。造形は軽やかで精巧、実用的である。専門家はこのような完成度の高い櫂は決して第一代の櫂ではないと考えている。

猪紋陶鉢(河姆渡遺跡出土) 獣形陶塑(河姆渡遺跡出土)

櫂は7キロメートル外れた田螺山遺跡から出土したと聞き、われわれは翌日、そこに向かって車を走らせた。ここも6、7000年前の河姆渡文化遺跡で、2001年に発見され、2004年と2006年の二度にわたって発掘され、1500点以上の器物と、欄干式の長屋、食物貯蔵穴、墓などが出土した。  嬉しいことに、ここには文物陳列館のほかに、また体育館のような面積3800平方メートルのドーム形の遺跡現場展示館がある。発掘現場をこの目で見られるというのは、古いもの好きの私をこれほど興奮させるものはない。ただ館内のある発掘現場で、黒い泥が積まれ腐敗臭が漂っていたのを見ても発掘のご苦労がよく分かる。今は、浙江の考古学者のほかにも北京大学考古学部の先生と学生たちもここで考古学の実習をしている。残念なことに、今日は休日なので、専門の作業員二人が防腐液に半年ほど浸した木の部材を水槽から取り出し、乾かし、はかりにかけ、登録しているだけである。

解説員が現場で私に「これは長さ約20メートルの欄干式の長屋遺跡です。この南側の点々とある紅土は火を焚いた遺跡です。長屋の後方に突き出した標識の盛り土の傍で、古い茶樹の根が出土しました。6、7000年前から茶の木を植えて、すでに栽培して緑茶を飲んでいたことがわかりました」と教えてくれた。

興味深いのは長さ15メートル、直径四十数センチの大きな丸太が欄干式の長屋の門の前から、斜め西に横に倒れている。これは何をするものなんだろうか?「これは丸木橋」解説員が「橋の北側で櫂八本が出土しました。専門家は古い渡し場だったと推測しています」と言った。

陳列館の各種の文物の中で、高さ約80センチ、直径三十数センチの双耳深腹陶罐と、寛口大腹陶罐がとくに目を引いた。聞いてみると、意外にもこれは古い葬具であった。昔、河姆渡人は不自然死の死者は埋葬して数年たった後、死体の腐食をまって、遺骨を拾い陶罐に入れ、再度埋葬する。これは私の故郷の客家人の「二次葬」を思い出させた。やはり死者を葬って5、7年後、墓を掘り、棺を開いて、遺骨を拾いきれいに拭き、「金盎」という高い陶罐に入れて、永遠の墓に埋葬する。客家人特有の葬俗が意外にも6、7000年前の河姆渡人の葬俗に似ているのに驚いた。

盆状口陶釜(田螺山遺跡出土) 人面形釜の支脚 陶盉(河姆渡遺跡出土)

ちなみに、発掘した30あまりの墓から、河姆渡人の数十体もの遺骸を発見した。体質人類学者が測った結果では、彼らのほとんどはきつい労働と疾病によって青少年の頃に死んでいる。成人の遺骸は身長約1.63〜1.69メートルである。顔は広い大きなほお骨とやや丸い目の縁、低い鼻骨、スコップ型の門歯——これらはすべてモンゴル人種の特徴である。

【縄、アンペラと原始的な「織機」】

欄干式の長屋遺跡から出土した百点以上のアンペラのかけらから、7000年前すでに縦糸横糸の織り方を用い、人の字形の模様のアンペラを織り、それを使って屋根を覆ったり部屋を分けたり、むしろとして寝具として敷いたと推測される。同じように、出土した陶罐に残っていた縄から、河姆渡人が樹皮、葛、麻の繊維で縄をより、それを使って陶器を引っ提げ、物をしばっていた…。

驚くことに紡ぎの輪、糸巻きの棒、分経木、骨の梭、筬など織布工具が大量に出土したことから、河姆渡人が原始的な紡績技術をしっかり把握していたことがわかる。

展示ホールに掛かっている「紡績織布図」によると婦人が紡ぎの輪を回し、葛、麻などの繊維を紡いでから糸巻きに巻きつける。織布のプロセスは縦糸の一端を腰に巻きつけ、ほかの一端を木の幹あるいは木の杭に固定させた後、骨の梭に巻いた横糸を繰り返し、横向きに交差させて縦糸と横糸を織りなす。そして筬で横糸を丈夫になるまで打つことによって、しっかりと織る。最後にでき上がった布を布軸に少しずつ巻く。 20年前、筆者が貴州を取材したとき、辺鄙なミャオ族村では今でもこのような紡績技術をまだ使っていた。

不思議なのは2000年も続いた絢爛たる河姆渡文化が、5000年くらい前に突然原因不明のまま消えたことである。これについて、専門家は戦争、疾病、洪水などが原因ではないかと、さまざまな推測をしてきた。  

1989年長江大洪水の後、専門家が河姆渡遺跡の地層についてさらに深く調査した結果、少なくとも6000年くらい前と5000年くらい前にかなり長くつづいた大規模な洪水が二回発生したことが明らかになった。とくに二回目の水害で、河姆渡人の郷里が水没しただけではなく、北に流れていた姚河が東に流れを変えた。これによって海水が河道に沿って遡り、ここを水郷地帯に変えてしまった。河姆渡人はいやおうもなくこの2000年も住んだ大地を離れざるを得なかったのである。

 

人民中国インターネット版 2010年5月26日

 

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