遼・金王朝 千年の時をこえて 第19回

 宋王朝が中国の南部で栄えていた頃、中国北方はモンゴル系の契丹人によって建てられた遼(907〜1125年)と東北部から興ったツングース系女真族の金(1115〜1234年)の支配するところとなっていた。これら両王朝の時代に、北京は初めて国都となったのである。

 

契丹の埋葬風習―慶陵と慶州白塔

慶雲山―内蒙古自治区赤峰市には、総称して慶陵と呼ばれる3つの遼皇帝の地下陵墓がある。 山襞に分かれて位置する3つの陵には、東陵、中陵、西陵の名がある

オボ墳。現在でも、住民が山岳や慶陵への供物を捧げる
私はこれまで、思いがけない処で、遼王朝の陵墓と関係深いものに出逢ってきた。2006年6月のある朝、新聞の第一面に契丹武者を描いた絵の彩色写真を発見した時は、本当に驚いたものだ。それというのもその数年前、私は内蒙古自治区にある慶陵を訪れたことがあるのだが、新聞掲載の絵はまさしく、その東陵壁画の一部であったからだ。この11世紀の作品が、67年ぶりに京都大学総合博物館で展示中と知り、私はすぐに京都を訪れた。驚くべきことに、等身大の武者像は今日なお、鮮やかな緑と赤の色彩を保っており、顔の一部がそこなわれてはいるものの、その眼には力があり、契丹特有の長い「髡髪」がはっきりと認められた。1939年に総称して慶陵と呼ばれる三つの陵墓を調査した京都大学の考古学者たちは、壁画の大部分がきわめて不良な状態に置かれていることを見て、この武者絵を取り外し京都へ持ち帰ったと記録にあり、それが今でも良好に保存されている。実際上、慶陵の二つの陵は封印され、残りの一つは雨水で甚だしく損壊してしまったため、この壁画のみが、われわれの見ることができる唯一の慶陵壁画である。

釈迦涅槃像。大理石。白塔出土(赤峰市、巴林右旗博物館) 慶州の白塔。73.2メートルの八角塔。1049年建立

東陵壁画の契丹武者像。特徴のある髡髪が見られる―京都大学総合博物館(2006年撮影)
慶陵墓群は、原始のままワルマニハ渓谷中にある慶雲山の麓に密集している。ここはかつて契丹族がお気に入りの狩猟地であった。昨年の夏、この雄大な景観を再び目にした時、昔ながらの変わらぬ自然のたたずまいに感動を覚えたものだ。

990年、狩猟地の近くに慶州(現在の白塔子村)という名の城郭が築かれた。草に覆われた城壁が往時、皇帝陵墓群を守護するために重要な役割を果した城郭跡を取り巻いていた。遼6代皇帝聖宗は、慶州から北西約10キロの地点を永眠の地として選定した。聖宗は1031年に逝去したが、その地下陵墓は山の斜面の下部より11メートルほど、角度をつけて掘られている。次帝の興宗(1055年没)、そして孫の道宗(1101年没)は、聖宗陵の両傍に同じ様式の陵を築かせている。遼王朝の滅亡後、三つの皇陵は20世紀に至るまで、忘れ去られたまま、この地に残った。日本の考古学者、鳥居龍蔵が1930年にここを調査した際には、墓は暴かれ、副葬品は軍閥総督湯佐栄の手によって、いずこかへ持ち去られていた。鳥居は陵墓の構造を詳しく調べ、壁画を写真に納めることに成功している。

陵墓の元の姿や副葬品等については、他の遼皇室陵で発見されたものによって、ある程度の推測は可能である。過去50年間くらいの間に、数百にのぼる陵墓の発堀が行われ、契丹の埋葬風習の理解をいっそう新しいものにして来た。『遼史』には、聖宗の葬儀は、慶州から棺を運ぶ長蛇の列であったとの記載がある。参加者は陵と聖なる東方へ向かって2度頭を下げ、新たに設けられた祭壇へ供物を捧げた。死者が来世で使用する馬具、金、銀の食器、宝石の装飾品、そして美しい陶器等、おびただしい数の埋葬品が陵の内部に安置された。聖宗の遺体は、絹布で包まれ、銀糸で編んだ装束を身に着けていたようである。黄金の仮面が顔をおおい、頭には精巧な装飾を施した冠がかぶせられていたであろう。別の例から推測するに皇帝達は予め準備された、木造の家のような棺の内部の多層の棺に安置されたものと思われる。

道宗陵の碑文に刻まれた契丹文字(拓本は1930年、鳥居龍蔵による)
遼陵墓には、必ずと言ってよいほど、漢文と契丹文字で刻まれた碑文がある。慶陵にあった墓石群は今、瀋陽博物館に陳列されている。これらの陵墓の内部はすべて、長い傾斜路の先に入口広間があり、そこからいくつかの室が続いていて、最奥の密室は円型か八角形をしており、皇帝の所持品を収めている。東陵の壁面は、70ほどの彩色壁画があり、これからみると、その他すべての陵墓も同じように壁画で飾られていたと推測される。ある絵は、狩猟場の四季を描いた風景画であり、また、あるものは武者や軍の行進の様子が描かれている。契丹貴族の墓には、棺の上部の円型天井に星座や幾何学模様を描いたものもある。

毎年秋になると皇帝一族は慶州へ墓参に来るのが、しきたりであった。1049年聖宗の妻・章聖皇太后は、慶州に仏塔を建立することを命じた。これが「白塔」として知られる有名な釈迦如来舎利塔である。輝くばかりの白色のこの美しい塔は、当時の慶州城内の草原に孤立して聳えている。大量の経典が悠久の祈りとして塔内に保存されており、それらの経典を保護するために空気の通りを良くすると同時に、害虫の侵入を防ぐための小さな穴が無数に穿たれているとのことである。1988年の修復の際には、800点余りの貴重な文物が塔の上部から回収された。その中に3体の釈迦の涅槃像があり、一つは大理石に精巧に刻まれた60センチほどの像で、釈迦入寂の穏やかな表情を湛えている。涅槃像は逝去した皇帝を祀るこの塔の目的に相応しい。この小さな涅槃像は最近、江戸東京博物館で展示された。大理石の像を彩る赤の顔料が、往時の輝きを保っていることは驚くばかりである。慶州と慶陵の埋葬品を見ると契丹社会の死者に対する作法のみならず、その富と高度の文化を強く印象づけられる。

 

人民中国インターネット版 2010年8月

 

 

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