社会主義はなぜ中国に受け入れられたか

 

中国は四大文明発祥国の1つで数千年の歴史を持つ国家だ。中華民族はその勤勉さと英知で、世界でも類を見ない輝かしい文明を築いてきた。しかし、欧米の一部国家が17世紀半ばから先進的な資本主義生産方式を確立し、18世紀60年代からは工業革命を開始していたころ、中国最後の封建王朝・清朝の統治者は自ら門を固く閉ざしていた。そして、もともとは中国より遅れていた欧米国家が、中国のはるか先を行くに任せてしまったのだ。

19世紀半ばになると、世界への進出・拡張を急ぐ英国はアヘンと軍事力によって、鎖国を続ける封建専制王朝の清を開国させ、中国を半ば封建国家、半ば植民地という状態にしていった。

この残酷な現実が、中華民族に共同の敵に立ち向かう機運をもたらした。アヘン戦争から、中国の人々の反抗の戦いは途切れることがなかった。しかし、太平天国の農民戦争、愛国救亡の鼓舞と変法自強の戊戌維新運動、義和団運動などはことごとく失敗に終わった。

1911年10月、孫文をリーダーとする辛亥革命がついに清朝を打ち倒し、1912年元旦に中華民国の成立が宣言されて、数千年にわたって中国を統治してきた封建専制制度の終焉を告げた。

しかし、この革命を先導してきた中国の民族ブルジョアは、帝国主義と封建勢力との間に深く錯綜する関係を有し、中国最多数の下層労働民衆とは深刻な乖離状態にあった。このため、辛亥革命の成果は袁世凱を始めとする北洋軍閥が手中に収めてしまった。中国の人々は依然として貧しく、立ち遅れ、分裂し、不安定で、混乱し、苦難の深淵の中にあった。

残酷な現実に直面し、孫文は民主革命の大きな旗を翻し、真の民主共和国を実現するため引き続き戦ったが、幾たびも失敗し苦境に陥った。

1917年、レーニンが指導する十月革命によって人類史の新たな紀元が開かれた。十月革命は、社会主義叢書の中に書かれていた学説が、初めて生き生きとした現実となったものだった。そして中国と同様、もしくはよく似た状況の北の隣国で起こったため、中国人にとっては特に強く引き付けられるものがあった。中国には十月革命に賛同し、初歩的な共産主義思想を持つ知識人の一団が出現した。

1919年前半、第一次世界大戦の戦勝国側がパリ講和会議を行った。会議では戦勝国側であるはず中国の権益が顧みられることなく、敗戦国のドイツが中国の山東省に持っていた一切の権益が日本に譲渡されることになった。5月4日、北京でこれに反対する学生3000人余りが天安門をデモ行進し、ここから広がった反日、反帝国主義の大衆運動は、「五四運動」と呼ばれた。国内の圧力もあり、中国代表は結局ベルサイユ条約に調印しなかった。

当時、ソビエト・ロシア政府は初めて中国に対して宣言を発し、「(帝政ロシアが中国で享受していた)一切の特権を放棄する」ことを明らかにした。中国の人々は、ソビエト・ロシア政府のこうした中国に対する姿勢から、社会主義に対していっそうの理解と感慨を深めたのだった。そして、これが社会主義思想を中国でさらに広めることにつながった。

「五四運動」の後、社会主義の研究と宣伝は、次第に当時の中国における進歩的思想の主流になっていった。社会主義路線の選択は、中国の知識人が実践を繰り返す中で選んだものだったのだ。中国共産党は、こうした背景のもと1921年に誕生した。

(『中国共産党簡史』(中国共産党党史出版社)に基づく 構成=王 征 翻訳=井上 俊彦)

 

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