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青島の著名人の故居

 

120年の歴史を持つ青島の歩みは、中国の近現代と等しく、植民および移民による新しい都市である。中国の近現代文学および文化に対する青島の貢献を論じる時、そこにはそれほど多くの「青島籍」の文学および文化の巨匠は見られないが、中国の近現代文学史、文化史において、重要な地位を占めている。なぜなら、近現代文学史の巨匠は、青島と分かちがたい生活、創作の縁を結んでいるからである。

20世紀30年代の青島には、才能のある人々、有名人が集っていた。中国現代文学のキラ星のような人々、聞一多、梁実秋、沈从文、洪深、老舎、王統照などがこの心地よい気候の土地で、創作をし、青島の都市文化の開拓者となり、若き青島にアカデミックな空気と文化的活力を与えた。青島の歴史は、彼らの創作活動により、厚みが加えられた。青島の文化は、これまでになかったピークに達し、当時は、北京、上海に次ぐ現代文化の中心都市だった。

それから80年が過ぎ、往時、青島の巨匠たちは歴史となったが、彼らの故居はいまも存在し、歴史を示す輝かしい場所となっている。

中国海洋大学魚山校区を中心とし、周囲1キロ四方は、青島の旧市街の風貌を残す典型的なエリアである。古い家屋は、赤い瓦、クリーム色の壁、高い窓に丸屋根が緑のなかに点在し、街路樹の茂る路が、地形に沿って続く。ここでは、訪れた人はヨーロッパの情緒が漂う都市の面影を堪能し、そこに残る巨匠たちの故居によってさらに青島の文化の流れを感じとることができる。

旧市街の福山路、魚山路、大学路の一帯は、青島の「著名人の故居通り」となっている。そのうち福山路1号は、二階建ての建物であり、著名な作家、劇作家の洪深の故居の所在地である。洪深は、1934年に青島に転居し、梁実秋に代わり山東大学の外国語科の主任となった。静かなこの地の環境のなかで、中国初の映画文学台本『劫後桃花』が書かれ、当時の映画界の女王だった胡蝶によって演じられた。

洪深故居の近くには、同じような二階建ての建物の沈从文の故居がある。沈从文は、1931年、この地を住まいとし、『从文自伝』『丁玲を記す』『月下小景』『八駿図』などの名著を記した。青島のこの時期は、沈从文の生涯でもっとも創作が旺盛な時期であり、一日、2,3時間の睡眠であったという。魚山路33号は、言語の大家、文学者の梁実秋の故居であり、それもまた2階建ての建物である。1930年から1934年にかけて、梁実秋は、青島で4年を暮し、それは生涯でもっとも幸せな時期だった。ここでは『文芸批評集』を創作出版し、『シェークスピア全集』の翻訳に着手した。

黄県路12号の小さな二階建ての建物は、1934年から1937年まで、老舎が住んでいた場所だ。ここで老舎は、『らくだの祥子』を完成させ、この故居は、老舎記念館に改造されている。小魚山福山路一帯には、現代詩人の聞一多、小説家の王統照、海洋学者の毛漢礼、教育家の華岡、海洋生態学者の朱樹屏、生物学者の童第周、物理学者の束星北、歴史考古学者の王献唐、現代小説家の楊振声、作家の蕭軍、蕭紅など著名人の故居がある。

青島という新しい都市がなぜ、これほど多くの著名人を引き寄せたのだろう?またなぜ、これほどの短期間に彼らは創作と研究の生涯における非常に重要な作品を成すことができたのだろうか?これに対し、青島市档案館編集研究処の孫保峰さんは、1930年代の青島の政治的地位は比較的高く、工業、商業は発達し、文化の発展にふさわしかった、という。青島は、南京国民政府の特別市として、南京、上海、天津、漢口などと並ぶ5大直轄市の一つだった。政局は比較的安定し、青島が列強により侵略、占領されていたとはいえ、地縁的な優勢により総体的には安定した政治局面となり、時に政治的な波の影響を受けることもあるにせよ、その受ける破壊と影響は、戦略的な攻撃を受けたそのほかの都市に比べかなり小さいものだった。この点については、蔡元培が、済南でなく青島に国立大学を設立したことに関し述べた理由によって証明できる。「済南は、華北への交通の要所であり、兵法家が必ず争う土地である。青島は戦乱から離れ自然の条件がすぐれている」

また、青島は、沿海都市として、経済が比較的発達している。それ以外に、青島の優れた住居環境も多くの文化人をよびよせた主な原因の一つとなった。蔡元培、聞一多、梁実秋、沈从文、老舎、蘇雪林などの文人、学者はみな青島に対する愛情を述べている。青島に街としての魅力があったからこそ、彼らは観光や休暇におとずれ、長期滞在をし、大量の文学作品を生み出し、それが1930年代の青島の現代文学の繁栄を促進したのである。

1930年代の青島の文学的土壌は、都市文学の成長にも利した。当時の青島の新聞業は発達し、30年代の青島の中国語の新聞は、『青島時報』『青島民報』『正報』『青島晨報』など20社余りがあり、外国語の新聞は、『タイムズ』『大青島報』『青島公報』など10社近く、青島の人口からすると新聞の普及率はかなり高かった。また外国語の新聞の数量は、北京、天津、漢口などの都市をはるかに超え、上海の11社に迫っていた。新聞業の発達により、文芸の別冊も自然と活発になった。文芸の別冊は、文学の天気の晴雨表のようなものだといえる。青島の発達した新聞業は、文芸の別冊にもチャンスをもたらした。

1930年代の都市文化のもう一つの重要な要素は、文系、理系の専門をもち、すぐれた教育者を擁した総合大学をもっていたことである。国立青島大学の創立は、非凡な意義をもち、30年代の青島の優れた文化と都市文学の勃興の基礎となった。(劉延青)

 

人民中国インターネット版 2011年5月16日

 

 

 
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