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「農村から都市を包囲する」道を開く

 

朱徳が率いる南昌武装蜂起で残存した部隊が井岡山に移動し毛沢東と合流。中国共産党の「農村から都市を包囲する」戦略転換において重要な一歩となった(油絵)

1927年、大革命(国共合作を基礎とする国民革命)が失敗に終わった後、蒋介石は南京に政権を樹立した。この政権は残酷にも共産党員と革命大衆を鎮圧、虐殺していった。1927年前半に約5万7千人いた党員は1928年前半には1万人余りまでに激減した。

1927年8月7日、中国共産党中央は湖北省・漢口で秘密裏に緊急会議を招集した。これが有名な「八七会議」で、ここで土地改革と武装蜂起の方針を決定された。8月1日、周恩来、朱徳などが江西省南昌で武装蜂起を決行、毛沢東は9月に湖南省と江西省の境界で秋収蜂起を率いた。12月11日には、広州蜂起が起こっている。1928年初頭までに、中国共産党は相前後して100回近い武装蜂起を行った。これらの蜂起のうちの一部分はまもなく失敗に終わった。しかし、一部の堅持し続け蜂起軍は、各省の境界、国民党の統治する中心都市から遠く離れた農村地域で活動を展開した。現在、8月1日は中国の建軍記念日となっている。

各地で武装蜂起が行われているころ、中国共産党中央は依然として上海にあり、党の活動の重点はこれまで通り都市に置かれていた。外国からもたらされた「都市中心論」は、中国の実際の情況から遊離していた。毛沢東、朱徳が指導する井岡山の革命根拠地での戦いは、国情に合致した革命路線を進めていくという意味で、大きな貢献をした。

井岡山は湖南省と江西省の境に位置する羅霄(らしょう)山脈の中央にある。毛沢東率いる秋収蜂起部隊はこの地に到着した後、統治階級内部に発生した亀裂の時期を利用し、国民党の軍隊の「進剿」(討伐作戦)を粉砕し、全力で党、軍、政権の建設を進め、寧岡を中心とする湖南省と江西省の境に位置する革命根拠地に基礎を築いた。朱徳が率いる南昌蜂起で残った一部の部隊も井岡山に移動し毛沢東と合流、労農革命軍第四軍(やがて労農紅軍第四軍と改称)に編成された。

1930年夏には、全国に十数カ所の農村根拠地が建設されていた。各根拠地は軍閥が混戦する時期をとらえ、農民の土地革命実行を発動し、革命政権を樹立し、遊撃戦を展開し、紅軍と根拠地を常に強固にし、増強させた。1930年夏、紅軍は7万人にまで増大した。苦しい探求の末に、中国共産党は、農村根拠地がすでに人民革命の力量を蓄積し磨き上げた主要な戦略基地となっていることを理解し始めた。

各根拠地が常に発展する状況下で、1931年11月7日から20日まで、江西省瑞金において第一次全国ソビエト代表大会が行われ、中華ソビエト共和国臨時中央政府成立が宣言された。同時に、毛沢東が臨時中央政府主席に推挙された。

大革命の失敗後、中国共産党は正しい革命の道を探し出した。この道は、都市から農村に立脚点を移し、農民群衆を発動し農民を頼みとし、農村に根拠地を建設し、土地改革と各種建設事業を展開し、農民を主体とする長期の革命戦争を行い、革命の力を発展・増大させ、最後に都市を占領し、全国的勝利を得るというものだった。この前人未到の道は、全党の集団的努力のなかで切り開かれたもので、毛沢東は最も卓越した貢献を行った。

(『中国共産党簡史』(中国共産党党史出版社)に基づく 構成=王 征 翻訳=井上 俊彦)

 

人民中国インターネット版 2011年5月

 

 

 
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