人民の力で政権を奪取

1949年10月1日天安門の城楼から「中華人民共和国中央人民政府は、本日成立した」と宣言した毛沢東 

抗日戦争に勝利した後、中国はどのような国家を作り上げるのかという問題に直面した。中国共産党は中国全土の幅広い人々の基本的利益を代表したのに対して、国民党は大地主や大資本家階級の利益を代表していた。蒋介石は内戦に打って出る方針を早くから決めていたが、当時の国内外の情勢から、積極的に内戦を準備するのと同時に、共産党と平和交渉を行いたいと表明した。1946年1月10日、中共代表は国民党代表とともに内戦停止協定に調印した。

国民党は米国の強力な支持のもと、全面的内戦の配備に力を入れていた。国民党が停戦協定の破壊を絶えずエスカレートさせるにつれ、全面的な内戦が日ごとに迫っていた。中国共産党は民衆の基礎を強固なものにするために、1946年5月4日、解放区の土地政策の改変を指示した、抗日戦争以来の「小作料と利子の引き下げ」政策を「耕す者に土地を与える」という政策に改め、幅広い農民が土地を獲得したいという正当な要求を支持し、農民群衆に強固な解放区のために闘争するようさらに発動した。

1946年6月、国民党は内戦の準備を整え、解放区への全面進攻を発動した。そして、数カ月のうちに共産党が指導する人民の軍隊を消滅させると高言した。しかし、1947年6月までに、中国共産党が指導する人民の軍隊は112万の敵をせん滅し、国民党の軍隊は内戦開始時の430万人から373万人に減少した。

蒋介石は苦境を逃れるため、兵力と装備の有利を借りて、戦場を解放区にまで広げることを企図し、さらに解放区の兵力と物資を破壊・消耗させようとした。戦局の進展につれて、中国共産党は戦略を変更し、敵の戦略進攻を完全に粉砕するのを待たず、解放軍の兵力が相手を上回り優勢になるのを待たず、ただちに全国的な進攻を開始し、解放軍の主力をもって包囲線を攻撃し、敵が手薄な後方の防衛体制を敷くように仕向け、蒋介石の戦略的意図と方針を粉砕し、戦争を国民党統治区域に向けさせ、敵を戦略的防御に回らせた。人民の軍隊は、国内革命戦争の中で長く置かれていた戦略的防御の立場をここに終結させたのだ。

時を同じくして、中国共産党は解放区でより広く深く土地制度の改革を進め、1947年に『中国土地法大綱』を制定、封建制度と半封建制度的搾取の土地制度を撤廃し、地主の土地を徹底的に平均分配した。長期にわたって地主階級の抑圧と搾取を受けてきた広範な農民たちは、政治的にも経済的にも解放され、生産に対する積極性が大いに高まり、多くの青年が人民の軍隊に加入した。これによって人民解放戦争が勝利に向かって進むことが保証されたのだった。

1948年秋、敵味方の戦力比較に大きな変化が起こっており、人民解放戦争が全国的勝利を奪取する戦略決戦の段階に入ったのだった。この時、人民解放軍は戦争初期の127万人から280万人に増加していた。

その後、中国共産党は、淮海戦役(長江以北解放)、遼瀋戦役(東北地区解放)、平津戦役(北京・天津地区解放))という三大戦役の後、154万余りの敵をせん滅し、国民党がその反動統治を維持するための主要軍事力を基本的に粉砕した。1948年12月30日、毛沢東は新年の祝詞の中で「革命を最後まで遂行せよ」の呼びかけを発した。

意気盛んな人民解放戦争は、ついに国民党の反動政権を粉砕した。1949年10月1日午後、北京30万人の軍隊と人民が天安門広場で盛大な開国式典を挙行した。毛沢東は天安門の城楼から「中華人民共和国中央人民政府は、本日成立した」と厳かに宣言した。

中国人民革命の勝利は、百年余りの帝国主義と封建統治者が結託し中国各民族を搾取・抑圧し、内外に絶えず戦乱を引き起こし、国家の四分五裂の局面を引き起こしていたものを終わらせ、長い間の念願だった民族解放と国家独立を実現したのだった。(『中国共産党簡史』(中国共産党党史出版社)に基づく 構成=王 征 翻訳=井上 俊彦)

 

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