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紅軍の運命変えた遵義会議の会場跡

 

土城鎮 四渡赤水記念館

遵義から重慶に向かう高速道路の建設が急ピッチで進められていた。山また山の貴州省では、高速道路の建設も高い橋脚を連ねた高架道やトンネルの工事が必要で、費用と時間がかかる。

土城鎮の中心部に位置する四渡赤水記念館

今回の旅の全コースに同行してくれた遵義雑誌社の記者、段康氏は「高速が重慶に通うようになれば、長江を通じて黔北(貴州省北部)と上海経済圏が結ばれることになり、大きな経済効果が望まれる。今年の年末までには竣工しますよ」と高速道路にかける地元の人々の熱い思いを代弁してくれた。

私たちは婁山関から、すでに完成した高速道路を北にひた走り、「太白」と名づけられた出口で地方道に入って、「夜郎」を過ぎ、習水県に向かった。

出口名「太白」といい、「夜郎」の地名といい、ここは、もしかしたら李白(字は太白)が流されたという夜郎の地ではないかと想像をたくましくしたが、今回は革命史跡を訪ねるのが目的なので、この話題は後日に。

習水県内には多くの革命史跡が散らばっている。

習水・土城で紅軍は赤水河を渡り、ひとたび四川省内に入って、敵の大軍の追撃をかわした。国民党軍が迫ると、東に行路を変え、二郎灘・太平渡で今度は西岸から赤水河を渡り、婁山関で勝利したあと、遵義を再び攻略して、貴陽で督戦する蒋介石を仰天させた。蒋介石は北から「川軍」を、南から「滇軍」を総動員し、「黔軍」と合わせて80万の大軍を繰り出す。紅軍は3月16日、茅台鎮で3たび赤水を渡り、敵軍をおびき寄せておいてから、二郎灘・太平渡で4度目の渡河作戦を敢行して、見事な運動戦を展開、国民党軍をさんざん振り回したあと、北上して金沙江(長江の上流)を渡り、西北の根拠地を目指した。

これが「四渡赤水」と呼ばれる長征史上名高い戦闘で、毛沢東の「軍事指揮芸術」が遺憾なく発揮されたのだった。

古鎮に色濃く残る紅軍の面影

土城は千年の歴史を持つ古鎮で、赤水河に臨む土城渡口(渡し場)を中心に塩の交易と水運で栄え、古い町並みが今もそっくり昔のままに残っている。

道の石畳にはくぼみができ、この街が長い歴史を経てきたことを足裏からも知らせてくれる。太い木の結構、白壁、戸板、黒瓦……。

土城鎮の女紅軍街。女性兵士が宿泊した民家

紅軍は赤水渡河を前にこの土城鎮に駐屯した。「石板街」をちょっと行ったところで南に下り、赤水河の川原に出る坂道は「女紅軍街」と呼ばれ、紅軍の女性兵士たちが宿泊した民家が並ぶ。また古鎮を望む丘の上には当時、紅軍第三軍団司令部が置かれた建物が残っており、「中国女紅軍記念館」として公開されていた。

朱徳夫人の康克清、李富春夫人の蔡暢、周恩来夫人の鄧穎超をはじめ紅軍と生死をともにした多くの女性たちの生涯が詳しく紹介されている。

古鎮の中心に位置するのが「四渡赤水記念館」で、展示からは長征勝利の道を切り開いた「よたび赤水を渡る」作戦の全貌を知ることができる。

2007年7月に竣工・公開されたこの記念館の外観は貴州省北部の民家の様式で造られており、古鎮の町並みにもマッチしていて美しい。

赤水河に臨んで「紅運大道」と名づけられた遊歩道がつくられていて、赤水河の流れを見下ろしながら散策を楽しむことができる。当時の赤水河は今よりも水量がずっと多く、流れも急で川幅も広かったという。

紅軍は地元住民の助けを得て、急遽集められるだけの木造船を集め、流れが比較的おだやかな渾渓口の渡し場に浮橋をつくり、3万の兵を西岸に移動させた後、浮橋を爆破した。国民党軍が大挙して押し寄せた時には、もう紅軍の姿はあとかたもなかった。数でも装備でも劣る紅軍は敵の出端をくじき、翻弄して攪乱する運動戦に終始したのだった。

 

 

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