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毛沢東思想が確立 革命の聖地 延安

 

延安

延安の街は、北に延河がゆるいV字形に流れ、宝塔山・清涼山・鳳凰山の三つの山が囲む市中心部の東端で支流の南川河が延河に合流し、この二本の川に沿ってY字形に街が広がっている。 

近年、陝北では石油・天然ガスの開発が進み、延安には関連企業のオフィスが設けられるなど、発展目覚ましく、高層ビルが立ち並んで、街の景観はすっかり改まった。革命史跡は、山々に寄り添うようにして、市内各所に散らばっている。

■日本軍の空襲さけて移転

鳳凰山の麓に位置する中共中央旧跡は1937年1月から翌38年11月まで、党中央の諸機関が置かれた場所で、毛沢東、朱徳、周恩来らの住まいもここに設けられた。

毛沢東の住まいは狭い中庭がある窰洞式の建物で、中に入るとひんやりとして涼しく、客間を挟んで右が執務室、左が寝室になっている。この執務室で『実践論』『矛盾論』『持久戦について』など一連の重要な文章が書かれ、客間では、カナダ人の医師、ノーマン・べチューンらと会った。

棗園の毛沢東旧居。紅軍の扮装で記念写真に収まる観光客も少なくない

裏手にある鳳凰山の山腹には防空壕があって、日本軍の爆撃機の空襲に備えた。1938年11月20日、爆撃があり、党中央は毛沢東の住まいを、城内から西北の楊家嶺に急きょ移すことを決定、次いで中共中央も楊家嶺に移転した。

説明板によると、日本軍による空襲は執拗に繰り返され、1941年10月まで17回に及んだ。爆撃による死者は214人、負傷者は184人。街の目立った建物が標的で、多くの公共建築物や民家が破壊された。

■党の「七大」を盛大に開催

楊家嶺は南北を山並みが閉ざし、山間に小川が流れる谷あいに位置する。山腹に窰洞をうがてば、空襲から人命を守ることができた。

ここには1938年11月から47年3月まで党中央が置かれた。中央大礼堂や中央弁公庁が建てられ、大礼堂では1945年4月23日から6月11日まで「七大」(中国共産党第七回全国代表大会)が開かれ、続いて6月19日に開かれた「七期一中全会」(中国共産党第七期中央委員会第一回全体会議)では、毛沢東を中央委員会兼中央政治局、中央書記処主席に選出した。

楊家嶺の中央大礼堂。1945年、ここで党の「七大」が盛大に開催された

ここに毛沢東思想を党の指導思想とすることが確立され、中国共産党は抗日戦争勝利から解放戦争に向かう挙党一致の堅固な指導体制を樹立したのだった。

中央書記処は1943年10月に楊家嶺から東北郊外の棗園に移り、毛沢東ら中央指導者も前後して住まいを棗園に移した。棗園はその名の通り棗や杏などが植えられた果樹園で、園内には党の諸機関の執務室が建てられ、果樹園に臨む山腹には多くの窰洞が掘られて指導者の住まいに当てられた。

棗園は「延安紅色旅遊」のハイライトとも言ってよく、園内の毛沢東はじめ五人の革命指導者像前では、中国各地からやって来た党組織の団体が党員宣誓式を行うなど、聖地延安ならではの光景を目にすることができた。

全国解放戦争の進展に伴って党中央が延安を離れるまでの一年間ほど、党中央の指導者の住まいが置かれたのが王家坪で、ここには2009年、延安革命記念館新館が建てられ、多くの貴重な文物が保存・陳列されている。

記念館前の広場では、武漢大学の学生が「夏季社会実践活動」として延安現地学習と社会調査を行っており、私たちも「調査対象」になってしまった。一行15人全員が初めて延安を訪れたとのこと。みな元気いっぱいだった。

 

 

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