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毛沢東思想が確立 革命の聖地 延安

 

保安(志丹県)

私たちは延安から北西に百㌔ほど離れた志丹県に「保安炮楼山窰洞」を訪ねた。志丹県は、もとは保安県と称したが、軍閥の閻錫山軍との交戦で犠牲になった劉志丹将軍の故郷であるため、志丹県と改称された。

志丹県保安鎮の毛沢東旧居。ここでエドガー・スノーが毛沢東に取材、その経歴と紅軍の実像が世界に紹介されることになった。当時のままに保存されている

志丹県までは延安市内から直行バスが出ていて、よく舗装された山間道路は快適ながら、道は二車線。カーブでトラックやトラクターを追い抜くときは一瞬ひやっとさせられる。突然、ヤギの一群が現れ、バスは減速徐行に。カシミヤヤギで、陝北ではカシミヤの生産が盛んだという。石油採掘も行われていて、採油用リグを車窓からも多く見かけた。「黄色い大地」では全面的な植樹が始まり、耕地を山林に戻す政策が着実に進められていることが分かる。

二時間半で志丹県に到着。

■『中国の赤い星』生んだ窰洞

米国のジャーナリスト、エドガー・スノーが国民党の封鎖線を越えて陝北に入ったのは1936年10月のことだった。

当時、党中央が置かれていた保安県に米国人医師のジョージ・ハーテムとともにたどり着き、周恩来の出迎えを受けた。スノーの著書『中国の赤い星』の重要部分を占める毛沢東への取材は、保安県の炮楼山にうがたれた窰洞の中で行われている。

「毛沢東旧居」の標識が掛かる窰洞に足を踏み入れると、外界の物音も消えて、私たちは75年前にタイムスリップしたかのような錯覚に陥った。

志丹県保安鎮にある劉志丹陵園。劉志丹将軍の功績をたたえる言葉が刻まれた多くの石碑が立ち並ぶ

この部屋で、毛沢東はスノーと十数日間をともにし、その経歴と紅軍長征の苦難の日々を語った。夜九時過ぎから取材は始まり、深夜二時に及ぶことも珍しくなかった。毛沢東の話を呉亮平(当時、党中央宣伝部副部長)が英語に通訳し、スノーが英語で筆記したものを、呉亮平は今度は中国語に訳して、その中国語を毛沢東がチェックした。

米国の雑誌『アジア』1937年7月号から「The Autobiography of MaoTse‐tung 」の連載が始まり、一カ月遅れて、上海の雑誌『文摘』(旬刊)で中国語の「毛沢東自伝」の連載が始まった。『中国の赤い星』は同年十月にロンドンで発刊され、中国語訳は翌38年2月、上海で発刊された。世界は初めて紅軍と長征、そして毛沢東が指導する中国共産党の実像を知ることになった。

二人が向き合って座った机と椅子、暖を取った火鉢、ランプなどもそっくり残されていた。私たちは立ち去りがたい気持ちを胸に保安の窰洞を後にしたのだった。

 

 

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