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「新中国はここからやってきた」 西柏坡

 

金田直次郎=文 沈暁寧=文・写真

河北省石家荘市平山県西柏坡村。

黄土高原の東辺を縁取るように北東から南西にかけて400㌔にわたって伸びる太行山脈の中程、柏坡嶺の東麓に位置するこの小さな村に、1948年5月から翌49年3月まで、党中央(中国共産党中央委員会)が置かれた。

相前後して、地主制度を覆す「全国土地会議」が開かれ、解放戦争の勝敗を決する「3大戦役」の指揮が行われるなど、ここで新中国の成立を準備する数々の重要な出来事が繰り広げられたことから、西柏坡は「新中国はここからやってきた」と形容されるほど、革命史上重要な位置を占める。

史跡は柏坡嶺を背に、3方が湖に面した小高い台地上に広がっていた。

近年、一帯の山間は森林公園として整備が進み、史跡は緑濃い山々と湖に囲まれて、大切に保存されていた。

国民党軍との大決戦と都市への進攻を前に、党中央はなぜ、この地に置かれたのか。西柏坡の歴史的位置づけを史跡と記念館に探った。

 

西柏坡記念館は、党中央と中国人民解放軍本部が西柏坡に移駐してちょうど30年目にあたる1978年5月に完成、一般公開された。その後、数回にわたって拡張と充実がはかられ、正面ホールと11の展覧室を使って西柏坡の革命の歴史を展観している。

西柏坡記念館。広場にある国旗掲揚台では早朝、 五星紅旗が高々と掲げられる

延安から西柏坡へ

全国土地会議を開き、『中国土地法大綱』を公布

石家荘を解放

解放区の財政活動を強化、人民元紙幣を発行

軍需産業の発展

3大戦役を指揮

「7期2中全会」(中国共産党第7期中央委員会第2回全体会議)の開催

新中国の青写真

忘れがたき歳月

 西柏坡を舞台に繰り広げられた数々の歴史的な出来事が写真とパネルでテーマごとに展示されていた。私たちは小さな村が担った任務の大きさを知って、認識を新たにしたのだった。

■忠実に復元された「旧跡」

史跡のメーン「中共中央旧跡」は忠実に復元されたものだ。 1957年、党中央は西柏坡村のほとりを流れる滹沱河を村から6㌔ほど下流で堰き止め、洪水防止・飲料水供給用の崗南ダムを建設することを決定した。59年に「旧跡」の測量が始まり、スチールとムービーで「旧跡」を丹念に記録する作業が始まった。建物は解体され、柱や梁、窓枠、連子窓など、構造部分は保存されて、復元を待つことになった。

「中共中央旧跡」。小高い台地上に、水没前の建物が移築され、かなう限り原形を保つ形で再現された

1970年12月、「旧跡」から北に500㍍ほど、標高が57㍍高い台地上が移築先に決まり、「旧跡」の復元作業が行われた。

今日参観できる「中共中央旧跡」は敷地面積1万6440平方㍍、建築面積は2690平方㍍。水没前の「旧跡」の建築面積3640平方㍍の7割強の建物がそっくり移築されたことになる。

 建物だけでなく植えられていた木々もかなう限り再現された。

もともと村人が住んでいた農家を借りて党中央指導者の住まいにあて、公共の建物は解放軍の兵士らが建て増しし、周囲を土塀で囲った、華北の農村のどこにでも見られる小さな村の造りだった。

党中央指導者の住まいは、毛沢東、劉少奇、朱徳、周恩来、任弼時の中央書記処書記と中央政治局委員だった董必武らの旧居が再現された。

「旧跡」内の中央軍事委員会作戦室。この狭い部屋から解放戦争の前線に多くの指示が送り出された

記念館内に展示されていたろう人形。中央軍事委員会作戦室内の模様を再現したもので、右から朱徳、周恩来、毛沢東、任弼時、劉少奇(手前)の5人の中央書記処書記

ほかに「7期2中全会」会場跡、中央軍事委員会作戦室跡、新華社総編集室跡、中央機関小学校跡など公共の建物も、相前後して再現された。

再現時に植えられたエンジュの木が大きく育ち、建物を覆うように緑陰を広げている。ちょうど薄黄緑の花が満開で、爽やかな香がただよい、木陰にしつらえられた木のベンチで休むと、ここが中国の新しい歴史を切り開いた革命の史跡であることを忘れてしまうほど、のどかな光景だった。

 

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