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新中国がここに誕生 北京

 

全中国解放の指揮所――双清別荘

北京の西郊、風光明媚な香山の奥に、双清別荘という建物がある。1949年3月末、中国共産党中央の本部がここに置かれた。当時の全国情勢といえば、遼瀋、淮海、平津の三大戦役が終わり、共産党と国民党は長江を挟んで対峙しており、戦火はしばらく絶え、折衝が再び開始されたところだった。

1949年4月、毛沢東は双清別荘で南京解放の速報を喜び目にした(写真提供・双清別荘)
1949年4月8日、毛沢東は双清別荘に置いて国民党の交渉代表・張治中、邵力子、章士釗らに会見した。毛沢東は共産党が主張した8項目の条件を再びその場で強調した。それは、「戦争犯罪人を処罰すること、にせ憲法を廃止すること、にせの法的正統性を廃絶すること、民主主義の原則に基づいてすべての反動軍隊を編成がえすること、官僚資本を没収すること、土地制度を改革すること、売国条約を廃棄すること、反動分子の参加しない政治協商会議を開き、民主連合政府を樹立して、南京国民党反動政府およびそれに所属する各級政府のいっさいの権力を接収すること」。これに対して張治中ら国民党代表は、個人的に賛成の意を表明したが、彼らの背後にある蒋介石が操る国民党政府は共産党の条件を拒否した。南京国民党政府は交渉を利用して時間を引き延ばしながら、70万人の軍隊を長江の南岸に移動させ沿岸線で防衛ラインを構築し、長江を挟み、共産党と自らの政権を成立させ、南北二つの中国という状態を維持しようとしていた。

交渉の期間中、周恩来と個人的に親しい関係を持つ張治中は、国民党と共産党との戦いは実質的には兄弟の戦いだと嘆いたことがある。これに対して周恩来は、「もし両党の代表団の関係というなら、兄弟と同じだ。われわれはともに平和のために努力する立場であり、将来も協力することができる。ところが、国民党の過去20年間、特にこの2年9カ月間の蒋介石政権といえば、兄弟の戦いではなく、革命と反革命との戦いだ!」と厳しく反発した。

4月20日、国民党中央常務委員会は『国内平和協定』を拒否する声明を発表し、両党の交渉は決裂した。翌日、毛沢東、朱徳は双清別荘に置いて『全国への進軍命令』を下し、「勇躍前進し、中国領内の、あえて抵抗するいっさいの国民党反動派を断固として、徹底的に、きれいに、のこらず殲滅して、全中国人民を解放し、中国の領土保全と、主権の独立をまもれ」と、人民解放軍に命令を出した。この命令を受け、百万の人民解放軍は1万隻以上のボートに乗り長江を一斉に渡り、国民党が入念に構築した防衛線を突破した。その後の42日間のうち、国民党軍43万人を全滅させ南京、杭州、上海、武漢などの大都市を解放した。これにより国民党の中国における22年の統治を終焉、蒋介石は絶望的な状況を見、やむを得ず台湾へ逃亡した。

4月24日、双清別荘の六角亭で、毛沢東は南京解放という勝利の知らせを読み上げ、歓喜のなか『人民解放軍 南京を占領す』という有名な七律詩を詠んだ。

毛沢東はこのような気概あふれる詩文をもって、中国共産党が全中国を解放する決意と自信を、やがて天地を翻すかのような、まったく新しい中国を迎えるという喜びを表わした。

1949年9月までに、台湾、チベットおよび西南地区の一部を除く中国の大部分が解放された。

双清別荘

双清別荘は、北京市海淀区にある香山公園南側の山腹に位置する。もともとは清代の皇室庭園である香山静宜園の「松塢山荘」だったこの別荘は、敷地内に2つの清水があるため、現在の名を得た。同別荘は静かで美しい環境に、高いマツとコノテガシワの木が立ち、「双清」という2文字が刻まれた乾隆帝の直筆の石と、明代に建てられた石経幢などの古跡もある。

1949年には毛沢東をはじめとする中国共産党中央指導者たちが住み、人民解放戦争を勝利の道へ導いた。双清別荘に深い感情をもつ周恩来は「このところをしっかり覚えるべきだ」と、述べた。

現在の双清別荘は、毛沢東の香山での活動を展示する陳列室となり、そこには当時の模様が再現されている毛沢東の部屋と、毛沢東の多くの写真及び電報や詩詞の原稿などが展示されている。

開館時間は毎日午前8時30分から午後4時まで、香山公園の入場券で入館できる

 

 

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