文化交流を通じて親近感

 現在、中日経済は相互依存、相互補完の関係にあります。中日両国の文化交流にも特色があります。両国の長い歴史、伝統を持つ文化で互いに師事し、互いに敬慕し、価値観にも多くの共通点があります。それによって、文化交流も中日関係を推進する原動力の一部になっています。長い間、中日間の仏教交流に尽力されてきた葉委員はこの分野についてお考えがおありだと思いますが。

2012年2月13日、天皇皇后両陛下が、東京国立博物館で開かれていた特別展「北京故宮博物院200選」を参観した(写真提供・共同通信社)

葉小文委員 私は20年間青年関係業務に、また20年間宗教関係業務に携わってきましたが、この両分野で身をもって感じたことをお話ししたいと思います。

まず、両国の仏教交流についてお話ししましょう。私は仏教交流が政治を超越し、時空を超越することができることを身をもって感じました。なぜなら、それは共通の信仰を通じて、代々受け継がれ育まれてきた歴史だからです。また、それは偉大な精神が貫き凝縮した歴史、多くの偉大な人物が先人の後を受けて新しく発展する端緒を開き形成してきた歴史、多くの友好人士たちのたゆまぬ努力を通じて編まれてきた歴史だからです。私たちは鑑真和上が6度に及ぶさまざまな困難を乗り越えて日本に渡ったことを知っています。その時、彼の目はすでに不自由になっていました。私たちは鑑真精神を学ぶべきです。

中日友好の象徴とされる鑑真和尚(688~763年)の坐像(東大寺所蔵・重要文化財)が、2010年11月26日から12月7日まで、生まれ故郷の江蘇省揚州市の大明寺鑑真図書館で展示された。ともに鑑真坐像の幕を開ける唐家璇氏(左から2人目)、元国土交通省大臣冬柴鉄三氏(右から2人目)、奈良県知事荒井正吾氏(右から1人目)(写真・王卓)

私の恩師である趙樸初氏は仏教居士でした。私が国家宗教管理局局長の時に、趙氏は何度か私に日本を訪問するように言いました。当時、私は「行きません」と答えました。それ以前、私が日本人に抱いていたのは中国に対する「侵略者ども」というイメージで、少しも好感を持っていなかったからです。すると趙氏は私を海南島に連れて行き、ある物語を聞かせたのです。それはこういう話でした。海南島には鹿回頭と呼ばれる場所があります。昔、ある少年が1頭の鹿を追っていたところ、鹿は振り返り美女になり、少年は彼女を愛し2人は夫婦になったというのです。彼はこう言いました。以前、彼が弘一大師(李叔同)に日本行きを要請したところ大師はこれを拒絶し、「海水はすでに日本人によって赤い血の色に染められてしまっている」と話したそうです。ところが、現在では趙氏らは障害を乗り越えて再度日本に赴き、中日仏教交流を通して、新たに中日の友好を取り戻したのだと、話してくれました。趙氏のこの話は私を感動させ、私は一行を率いて日本を訪問することにしました。その結果、日本人はとても歓迎してくれました。私たちが訪問した寺院の中では、鐘や太鼓がいっせいに鳴らされました。それは私たちが趙氏の使者だからで、私をとても感動させました。同根同源の両国文化は中日の関係を改善・推進する面で巨大な力を持つと思います。

私は、2000年にわたる友好は中日関係の独特の長所を形成していると考えています。河野洋平元衆院議長が話されたように、日本文化の伝統の中には中国文化のかぐわしい香りが濃厚に漂っているのです。加えて、私たちには民間の土台があります。両国の民衆交流の歴史は長く、規模は大きく、その影響は深いのです。これは、世界の文明発展史の中でも極めてまれなものです。ですから、中日関係が困難に出会う時にはいつも、文化の力、民間の力が立ち上がり、深く静かに、絶えず努力を続けていくはずです。なぜなら、いずれにしても「ひと筋の春風が吹けば、大洋の彼岸にも緑を運ぶ」と、私たちは固く信じているからです。

薛偉委員 まさに葉委員が話されましたように、中日両国の文化交流は特に重要です。文化は人間性を明らかにするものであり、人と人の間の共通点を明らかにするものだからです。これを切り口とすることで、人と人の間のコミュニケーションとお互いの親近感を容易に強めるからです。

1983年、日本の国際バイオリンコンクールで受賞後、ある芸術学校の学生ファンと交流する薛偉氏(写真提供・薛偉)

1970年代末、有名な指揮者の小澤征爾氏は中国で公演しました。当時私はまだ小学生で、大人たちと白黒テレビの前に集まって彼が中国のオーケストラを指揮するのを見ました。小澤氏の公演は全中国にセンセーションを巻き起こしました。それは、当時12歳の子どもだった私に強烈な印象を与え、日本を知りたいという好奇心を芽生えさせたのです。

1983年、私は日本の国際バイオリンコンクールで賞を獲得して、数多くの日本の芸術家や人々からのお祝いの言葉をいただきました。彼らの情熱や友好、それにクラシック音楽に対する高い鑑賞レベルなどは、私に強い印象を残しました。それによって、日本の国と民衆に対する親近感が生まれました。

 中日文化は同根同源で、中国の多くの優れた伝統が日本にしっかり根を下ろしています。「温、良、恭、倹、譲」という美徳もわれわれの共通の宝物です。

周 唐首席委員にお聞きします。現在、どのような内容、形式で中日文化交流に新たな原動力を提供し、また国民感情改善のためにどのような新たな役割を果たすべきでしょうか。

 中国と日本は一衣帯水であり、2000年の長きにわたる友好往来の歴史の中で、文化の交流がずっと貫かれ、中断されたことはなく、その淵源は深く、厚いと言えます。秦、漢の時代から始まって、漢字、仏教、法令や制度、書画、詩歌が日本に伝わり、日本文化の重要な構成部分になりました。中国の儒家思想が日本で豊かに発展し、「和諧共生」(和らぎ調和してともに生きる)、「以和為貴」(和をもって貴しとなす)という理念も中日両国の共通の特徴です。両国は互いに近くて通じ合う東洋文化の価値理念を持ち、これが中日関係を他の国々との関係と区別する際立った特徴であり、また中日関係の独特の優位性でもあるのです。

日本を代表する歌舞伎の女形、坂東玉三郎(左)が、中国の古典劇「昆劇(昆曲)」の有名な演目である『牡丹亭』を中国の役者たちと共演し、北京・湖広会館で10回公演した(写真・李智勇)

この面で、最近、1つのよい例があります。先ごろ、「中日国民交流友好年」の幕明けの行事として、特別展「北京故宮博物院200選」が東京で成功裏に挙行されました。展覧会は空前の盛況で、日本のメディアがこれを広く報道し、社会の反響も非常に大きかったのです。天皇皇后両陛下、皇太子殿下も参観され、日本の民衆は毎日、長い行列を作って入場を待ち、最も長い待ち時間は5時間にも達したそうです。参観者の総数は25万人を超えました。われわれは国交正常化40周年というこの好機を利用して、こうした活動をもっと多く行わなければなりません。

これはわれわれに、こうしたことを思い起こさせてくれます。すなわち、両国共通の文化的価値観や理念から着手し、本当に人の心を打ち、共鳴を引き起こす文化交流活動をより多く展開してこそ、はじめて多くの普通の民衆の関心を呼び、中日関係の支柱となるようにすることができ、また、真に彼我の感情の距離を近づけることができるということです。

 私はまだよく覚えていますが、1980年代初めごろ、日本の映画やテレビドラマが中国大陸に上陸してきました。『追捕』(日本語題『君よ憤怒の河を渉れ』)、『おしん』などの作品と高倉健、山口百恵、栗原小巻、中野良子などのスターです。彼らの中国での知名度は本国の日本を上回っていると言われるほどで、津々浦々に知れわたっていると言えますが、彼らは中国に日本文化の風を起こしたのです。これらの映画、テレビドラマは、中国人が持っていた日本人に対する軍国主義一辺倒のイメージを根本から変えました。また中国の観衆に対して、日本社会を感覚的に認識させ、日本が廃墟の中から立ち上がり、現代化に向かって進んだ過程を見せるものとなりました。

中日合作の最初の映画『未完の対局』の中国ロケが、1982年3月下旬に北京で始まった。写真は、北京の八達嶺長城でのロケに参加した中日両国の俳優たち(新華社)

日本と中国は、文化的側面の交流において、互いの距離が近いというメリットがあります。当時、中国の門戸は開かれたばかりでしたし、加えて数十年にわたって文化的に外界と隔絶されていたため、中国人は西洋文化の受け入れにはまだ一種のプロセスを必要としていました。しかし、日本文化と中国文化は共通の根を持つため、中国人にとって大きな親和力がありました。もし両国が文化交流の強化を堅持していければ、両国人民の気持ちの上に、双方が「ともに利益を得、ともに生存する」ために有益な土壌を育むことができるのです。

 確かに、テレビ・映画の作品が中日関係に及ぼす影響と役割は無視することはできません。1980年代、両国の国民感情は空前の良好な水準に達しましたが、映画作品の功績は非常に大きいと言えます。今後、中日両国は、相手国の優秀なテレビ・映画の作品を多く導入しなければなりません。また相手国の市場に自国のテレビ・映画作品をプロモーションするよう力を入れ、双方が協力して中日人民の代々にわたる友好を盛り上げる作品を多く撮影すべきです。成功した先例がありますから。

 

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