世界第二の経済体にどうしてできたか?(上)

中国共産党中央党校党史研究室教授 謝春濤 氏

謝春濤(しゃしゅんとう)
Profile1963年2月生まれ。山東省臨沭県出身。1988年から中国共産党中央党校で党史と理論の教育、研究に従事している。現在、同校党史研究部副主任、教授、博士課程指導教官。浙江省金華市副市長を兼任。主な編著に『中国の特色ある社会主義史』『転換する中国-1976-1982』『歴史的軌跡 中国共産党はなぜできるのか?』など。
1978年、中国の国民総生産(GNP)は世界のわずか1%で、一人当たりではわずか127㌦に過ぎず、米国は中国の76倍、日本は66倍だった。中国は世界190余の国々の中で、貧しい国としてよく知られたザイール(現在のコンゴ民主共和国)と並んで、貧乏国のひとつだった。

しかし、1978年から2008年までの30年間、中国のGDPの伸び率は年平均9.8%の高率を維持した。2009年、一人当たりのGDPは3000㌦に届き、世界一の外貨準備国になった。2010年の経済総量で、中国は初めて日本を抜き、世界第二の経済体に成長した。それでは、中国共産党と中国政府はどのようにこうした経済的な奇跡を実現したのだろうか。

一貫して経済建設堅持

1970年代末から、中国共産党は活動の中心を速やかに社会主義現代化建設に移す方針を提起し、党内の多数の人々の支持を獲得した。1978年、中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議(三中全会)が開催された。中国人が改革開放の起点とみなすこの会議は、鄧小平氏が党指導部の核心になったことを示したのみならず、さらに重要なのは、全党的に経済建設を中心に据えた政治路線を確立したことだ。

この政治路線に導かれて、中国は経済建設の高潮期を迎えた。経済的な実績を人事評価の主要な基準とした審査体制を通じて、全国的に上から下まで、経済発展に対する関心が倍加した。中央政府は地方幹部の積極性を促すために、経済利潤の分配権の一部を地方に移譲した。地域間に競争がある状況下で、地方幹部は遅れをとるわけには行かず、あらゆる方策を講じて、自分が所属する地域の発展を加速させた。こうしたことによって、中国経済は全体的に大幅に底上げされた。

1990年代、ソ連、東欧諸国で社会制度が激変していた瀬戸際でさえも、鄧氏はこの基本路線は百年は揺るがないと強調し、発展こそが根本的道理だという認識を変えなかった。後に続く江沢民氏がこの路線を引き継ぎ、発展は党の執政、国家振興の第一要務だと考え、数多くの措置を講じ、中国の経済発展を推進した。現在の最高指導者の胡錦濤氏は経済発展を第一に置き、さらに科学的発展観の新思想を提起した。

30年余にわたって継続してきたこの政策は、中国に巨大な改変をもたらした。目下、中国は世界第二の貿易国となり、世界貿易全体の8%以上を占めている。中国製の代表的な製品にはコピー機、電子レンジ、DVDレコーダー、靴、おもちゃなどがあり、世界最大のチェーンストアの米国・ウォルマートに出店している6000社のうち5000社以上が中国だ。

生産力の解放と発展

鄧氏は高度に集中した計画経済体制が生産力の発展を束縛しているとの認識に立ち、時機を見計らって、市場化の推進による生産力の解放と発展を決定した。社会主義市場経済体制を確立する過程で、農村改革、国有企業改革、民営企業の活性化も推進され、それらが合わさって、生産力の解放と発展が推進された。

農村改革は農民の生産意欲を刺激し、長期間抑圧されてきた農村の生産力を解放した。農業は毎年うれしい豊作が続いた。1984年の食糧総生産高は4億350万㌧、一人当たり400㌔に近づいた。長い間、中国人民を悩ませてきた衣食問題は、わずか数年で基本的な解決をみた。農村改革は鄧氏でさえ思いつかなかった結果を招来した。それが郷鎮企業の大発展だった。

非農業生産活動に従事する農村労働力が爆発的に増加し、1978年には2800万人だったが、2003年にはすでに1億7600万人に達した。郷鎮企業の工業生産額は1990年代中期になると、外資経済、国有経済と共に天下を三分するほどに成長していた。

改革開放政策の下で発展してきた代表的な街-深圳。街角には鄧小平氏の巨大な肖像画が掲げられ、改革開放戦略の擁護と鄧氏への敬愛を表している(NIPIC)

中国共産党中央は、都市改革に際して、企業改革を経済発展促進の核心に据えた。これによって、中国は西欧に学び、国有企業に株式制を導入した。1986年9月26日、中国初の証券の店頭取引を行う静安証券業務部が上海で営業を開始した。かつては資本主義のシンボルとみなされ、取り締まりの対象だった証券取引所が、前後して、深圳、上海に設立された。現在、この二カ所の証券取引高の変化が、中国経済のバロメーターになっている。

画期的な破産制度導入

1997年、欠損を出した大中の国有企業は6599社に上った。中国政府は『企業破産法』を制定し、倒産の危機に瀕していた国有企業を破産させた。労働者は以前、働きにかかわらず、食べるのは同じ釜のメシ「大鍋飯」、持っているのは決してなくならない「鉄飯碗」で、失業することなど考えも及ばなかった。共産党が破産制度を導入した目的は、企業と労働者を励まして市場経済の競争の荒波に適応させるためだった。失業した労働者は政府の支援と職業訓練を経て、労働市場で新たな仕事を見つけた。2000年、大多数の国有企業が初歩的な現代企業制度を確立した。2010年5月9日のシンガポール紙『聯合早報』は、世界のトップ500社に名を連ねる中国企業数はすでにトップクラスだが、その大部分は国有企業だ、という記事を掲載した。

改革開放の初期、鄧氏は一部の人々、一部の地域が誠実な経営によって先に豊かにさせるべきだという構想を打ち出した。また政府は青年の就職問題を解決するために、雇用の門戸を広げ、自力で就職口を見つけられる政策を採用した。

1984年、中国科学院の研究者だった柳傳志氏が北京中関村でコンピューター会社「新技術発展公司」を立ち上げた。当初はわずか社員11人、資本金20万元の小企業だったが、20年余の努力によって、現在では聯想(レノボ)持株有限会社に成長している。2005年、聯想集団はIBMのノートパソコン部門を買収、世界最大のノートパソコン企業になった。2010年、民営企業吉利集団は世界的に名前が知られているボルボ集団を買収した。これは中国の自動車産業が世界に向かって発展する画期的な出来事だった。

 

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