魯迅博物館専属カメラマン 田中政道

 

魯迅博物館のカメラマンとして

私は、北京市にある魯迅博物館で専属カメラマンをしています。 2008年から博物館に所属し、魯迅博物館の収蔵品や魯迅夫人である許広平の遺品、収蔵品を撮影し、図録の作成などに携わっています。その傍ら中国企業、日本企業の広告の撮影も継続しています。

私は、工芸大学を卒業後、東京にある(株)ササキスタジオに入社し、1997年まで、スチールカメラマンとして20年間在籍し、その後フリーカメラマンとして独立。その間に、様々な企業広告に携わってきました。北京で仕事をすることになったいきさつは、魯迅の孫、周令一氏(魯迅の息子である周海嬰氏の息子)が、1985年に私が働く会社に入社し、私の部下として仕事を始めました。このことがキッカケになりました。1989年に初めて北京へ観光旅行に行った際に、お世話になったのが、日本の旅行会社に勤めていた、後に妻となる周海嬰氏のお嬢様で周宁さんでした。

私は、2008年に中国企業と組んで広告写真撮影を行おうと、北京に渡りました。しかし、撮影機材等が、横浜港で足止めされるなど諸々の事情により、その中国企業とは、上手くいかなくなってしまいました。その時、義父である周海嬰氏の口添えで、国家外国専家局の許可を得て、晴れて魯迅博物館の専属カメラマンとしての役目をいただき働くことになりました。日本での仕事は、各メーカーの商品を売るための商業写真撮影がメインでした。流行やかっこよさをアピールしたり、購買欲をそそるような画像を提供するのが主な目的です。しかし、博物館での仕事は今までとは違い、歴史として、一時代を少しでも長く後世に残し、より多くの人達に見てもらい、誰にでも解り易く忠実に伝えていく事が撮影家としての仕事です。博物館での撮影する全ての物が、今の時代と密接に繋がっているのを感じ取るができ、とても有意義なことだとひしひしと感じています。

『藤野先生』のタイトルを解明

小説『藤野先生』のタイトルは、実は書き直されていたもので、原文は、魯迅が黒く塗りつぶして、横に藤野と書き換えました。生前 義父(周海嬰)は、その事を大変気にしていました。魯迅は、滅多に書き直しをしない人なのに、ましてやタイトルを書き直すと言う事は、どう言う事なのか? 以前から付き合いのあった佐藤明久氏と私達(魯迅博物館、記念館スタッフ)で、その謎を解明する事になり、様々な撮影方法を試して遂にモニター『吾師藤野先生』が浮かび上がった時、一同、どよめきと喝采が上がりました。帰宅後、義父に、解明する事が出来たことを報告すると大変喜んでおりました。そこに至るまでには、5年の歳月が掛かりました。今思い起こすと、亡き義父(周海嬰)への僅かな恩返しが出来た事は、大変良かったと思っています。

日中友好について

あえて日中友好などと言う言葉を出さないで日本と中国は肩の力を抜いて付き合っていきたいものです。高齢化社会の日本人は、中国人に学ぶ事がとても多いと思います。例えば、日本であれば、定年退職となると、その後の生活は閉塞感が漂っている様な感じを多く受け止められますが、中国では、定年後のお年寄りはとても元気ではつらつとしています。定年を楽しみにしている人が多いとも聞きます。何処の公園へ行っても色々なサークルがあり歌や踊りに、運動サークルに入って汗を流すお年寄りがたくさんいます、小鳥を飼いならして技を競ったり、凧上げのメンバーが集まって楽しむなど、多岐にわたってお年寄りが明るく元気な生活をおくっています。日本とは違い、中国は地域の協力、連携が整っていることも力強いと思います。こうしたお年寄りの生活の一端を、多くの日本人に見て欲しいと思います。

 

 

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