小学生が伝える空海の結んだ縁

 

空海漂着点を特定

1200年の時が流れ、世の中は大きく変わった。史料が乏しい中で、赤岸が空海入唐の地であると、どうして特定できたのだろうか?

空海

長い間、日本の研究者や真言宗関係者たちは空海入唐の足跡を探し求めてきた。彼らは史料に残された漂着の地「赤岸」がどこであるかを特定するため、中国沿海地域を調査した。実は、中国の各地に赤岸という地名があるのだ。さらに、時代の変遷と共に地名も変わった可能性がある。漂着地を特定することは極めて困難な作業だったが、1980年代に、ハルビン師範大学歴史学科の游寿教授が空海漂着の地が寧徳市霞浦だという手がかりを発見した。游教授はもともと霞浦の出身で、歴史と考古学に通じた中国でも著名な歴史学者であり書道家だった。

1981年、游教授は平安時代初期に編さんされた勅撰史書『日本後記』に、空海が唐の貞元20(紀元804)年の8月10日、福州長渓県赤岸鎮南の湾に着き、県令の胡延沂らが出迎えたことが記されているのを発見した。そこで彼女は霞浦に戻り、赤岸で調査を行ってこれをまとめた論文を発表すると、日本で大きな注目を集めた。1984年、高野山大学の静慈圓教授をはじめとする「空海・長安への道」訪中団が、赤岸で調査を行った。湾を調査し、船に乗ったり、文献を照合した後、一行はそのまま西安に向かった。帰国後、静教授は『空海・長安への道』という報告をまとめ、そこで現在の寧徳市霞浦県赤岸村こそが紀元804年に空海が漂着した場所であると断定した。

 

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