![]() |
![]() |
小学生が伝える空海の結んだ縁 | ||||
中日の協力で記念堂を建設 九死に一生を得て赤岸に漂着した空海は、当初の予定から大きく外れた場所に到着してしまったことになる。それでは、証明書類も財もない彼はどうやって長安を目指したのだろうか? この点については福建省寧徳市霞浦空海研究会が考証を行っている。 空海研究会は1988年に設立された組織で、会員は広く中国各地におり、多くは歴史学者だ。現在までに『空海研究』3冊(中国語/日本語)を発表している。空海は774年に現在の香川県に生まれている。俗姓は佐伯と言い、豪族の出身だった。子どもの頃から『論語』『孝経』などを学ぶなど頭脳明晰だったという。やがて仏教に傾倒し、23歳で高官への道を捨てて僧となり、その後奈良東大寺で得度受戒し、空海と名乗るようになったとされる。そして偶然に、唐から伝えられた『大日経』を手に入れたが、梵字で書かれた経は日本では読むことができず、31歳の空海は入唐求法を決意し、遣唐使船に留学僧として乗り組んだのだった。 空海研究会の邱賽貞常務理事によると、この時の遣唐使船は全部で4隻だったが、途中で暴風雨に遭い2隻は難破した。1隻は現在の浙江省寧波に着いたが、空海が乗った船は赤岸港に漂着したところを村人に発見され、すぐに救助された。村人は遣唐使に宿と食事を提供する一方、県府に通報した。当時の県令胡延沂はこれを知ってすぐに駆けつけ出迎えた。空海は漢語に通じており、ここで遣唐大使藤原葛野麻呂の通訳を担当した。日本の使節団は暴風雨で証明書類を紛失していたため、空海は大使に代わって福州の長官に援助を求める嘆願書『為大使与福州観察史書』を書き上げた。丁寧で真摯な感情がこもった文書は福州刺史をひどく感動させ、刺史はすぐに空海一行が北上して長安に行くことができるよう手配した。赤岸に滞在すること41日、遣唐使一行は福州に向かい、福州に約1カ月滞在した後、空海ら24人は長安を目指した。
こうして、5月に日本を出発した空海一行は、その年の12月末になってようやく長安に到着したのだった。空海は青龍寺で恵果和尚に師事し、恵果和尚入寂後、空海は33歳で日本に帰国して真言密教を確立し、高野山に金剛峰寺を建てて教えを広めた。また、私立の教育施設綜芸種智院で民間人の教育を行った。こうした功績から、空海は「日本文化と日中友好の先駆け」と呼ばれる。 1994年、中日双方が資金を出し、霞浦海岸に空海大師記念堂が建設された。正殿の中央には日本から運ばれた空海大師のビャクダン木の立像が安置されている。毎年、高野山からの訪問団がここを訪れ友好交流を行うのはすでに慣例となっている。両国関係に紆余曲折があってもそれは中断されたことがない。赤岸小学校の子どもたちは空海の故事を聞き、故郷の海とその向こう側にある日本に特殊な感情を抱きながら育っていく。
人民中国インターネット版 2014年7月
|
||||
人民中国インタ-ネット版に掲載された記事・写真の無断転載を禁じます。 本社:中国北京西城区百万荘大街24号 TEL: (010) 8837-3057(日本語) 6831-3990(中国語) FAX: (010)6831-3850 |