再出発は戦犯管理所から

 今年7月3日から、中央檔案館(公文書館)は中国侵略日本軍戦犯45人の供述書を次々に公開した。供述書とその背後にある物語からは、中国政府がいかに正義と寛大な心を持って、日本の軍国主義が作り出した戦争の「悪魔」に手を差し伸べ、彼らの良心を呼び起こし、過ちを認識させ、自分を新しい人間に生まれ変わらせたかがわかる。また、そこから中日間の戦争に終止符を打ち、平和友好の道を築いた両国先人の艱難辛苦も深く感じ取ることができる。

困難だった「改造」への道

1950年の夏、969人に及ぶ日本の戦犯が遼寧省の撫順戦犯管理所に護送されて来た。元日本陸軍中将、第59師団長、戦犯の藤田茂は、日記に「われわれは1936年関東軍が中国の抗日勢力を制圧するため建てたこの監獄に監禁された」と皮肉まじりに書いた。そしてほかの戦犯と同じく、ここで自分を待っている「改造」を案じ、不安な思いでいた。

1950年代のメディアは中国侵略日本軍戦犯に対する改造を紹介した際、「新中国式改造」という言葉を使った。撫順戦犯管理所に収監された戦犯も、ここで働いた人も、この言葉に対して複雑な感情を抱いていた。

1956年、瀋陽特別軍事法廷で、中国侵略日本軍戦犯の中には、慟哭、落涙し、自分の犯した罪に対して、謝罪する者もいた(新華社)

中国の改造に対して、藤田と元の部下の島村三郎、瀬谷啓らは罪を悔いずに、対抗姿勢を崩さなかった。また、元々侵略者への憎しみを抱えている中国側のスタッフも、この対抗姿勢を見て憤りを禁じえなかった。炊事班は「侵略者」の食事を作りたがらず、医療班は「悪らつなオオカミの傷を治している」と感じた。撫順戦犯管理所の孫明斎所長も、自分の家族が日本軍に焼き殺された惨状を忘れられず、当初はどうしても戦犯改造のことを理解できなかった。

しかし、周恩来総理の「20年後現在の仕事を振り返れば、この中にある意味と価値が分かるだろう」という言葉を思い出し、彼は率先して憎しみを手放したのだった。彼はすべてのスタッフに向けて「自分の感情を抑圧し犠牲にすることも戦いの一つだ。必ず戦犯を改造することができると、私は信じている」と話した。

その後、撫順戦犯管理所は藤田、島村ら最もかたくなな戦犯を単独に収監した。日本の慣例を知る島村にとって、「単独監禁」は「虐待」と「処刑」を意味するものだった。しかし、犯した罪の自白を求めるスタッフによる毎日の慣例的質問と、それに対する自らの機械的な拒絶が繰り返される以外、そこでは何も起きなかった。

単独監禁された半年間に、島村はますます多くの自分の罪を証明する日本語訳資料を目にした。最後には、1冊ごとにとじられた資料を積み重ねると40㌢の高さに達した。これらの資料を全部読み通すには9日間かかるほどだった。

ある日、島村に日本の妻から手紙が送られてきた。息子が交通事故で亡くなったという内容だった。その夜、崔仁傑戦犯輔導官は監房で島村と共に月を見ながら、一晩腹を割って話し合った。そこで島村は、捕まえた抗日兵士の射殺を部下に命じたこと、自分の手で殺した、あるいは生き埋めにした民間人のこと、731部隊の人体実験の材料としてトラックで運ばれた人々のことなどを思い出し、「直接的、間接的にこの手で奪われた中国人の命は少なくとも6000人になる。あるいはこの数字をはるかに超えるかもしれない」と述べた。

ある朝、島村は隣の監房に監禁されている藤田にこっそりと「深く恥じ入る。考えが変わった、調書を書く」と記された紙を渡した。藤田はその紙に「あなたが書くなら、私も書く」という返事を書き付けた。

被害者の告発を聞き号泣

島村は自分が犯した罪を一つ一つ真剣に思い出して書いた。彼は、後に自らの著書『中国から帰った戦犯』に、罪の意識にさいなまれ、よく夢に過去の断片を見て深夜に目を覚ました心境を書きつづった。そこには「自白すれば死を免れないと思い、ずっと消極的に対抗していた。しかし、9日間かかってすべての起訴資料を読み終わってからは、死はもうどうでもいいことになった」と書かれている。

戦犯管理所でレクリエーションを楽しむ日本人戦犯。中国政府はさまざまの文化・体育活動の機会を提供し、彼らの心身の健康に配慮した(新華社)

戦犯たちはまた、被害者が自ら語る告発の声を聞いた。1932年、撫順近くの平頂山で、日本軍は3000人の民間人を殺した。当時7歳の少女だった方素栄さんは唯一の生存者だ。過去の大惨事を起こした戦犯に対して、すでに幼稚園の教員になっていた30代の彼女は、「日本軍は銃剣を持って村に突入して来た。そして、『写真を撮りに行け』と村人全員を村外に追いたてた。『写真って何?』と私はおじいさんに聞いた。おじいさんは高粱の茎で作られた風車を私の手に押し込みながら『聞くんじゃない、聞くんじゃない……』と言った。そして、虐殺が始まった。銃弾が麦を刈るように家族を殺していった。銃剣が弟の頭を突き刺した」と語った。彼女の話がまだ終わらないうちに、戦犯たちは全員号泣しながらひざまずいた。

1950年から1955年にかけて、撫順と太原の戦犯管理所で、合計1062人の戦犯が罪を認めた。彼らは供述を自らの手で記した。最終の審判が彼らを待っていた。

 

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