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400年超える石窟造営 | ||||||
田潔 呉文欽=文 佐渡多真子=写真
洛陽市から南へ13キロ離れたところにある峡谷の東西両側には断崖絶壁が対峙するように高く聳え立ち、その間を伊水が流れ、遠くから見るとあたかも自然の宮門・闕のようだ。東周以来、ここが「伊闕」と呼ばれているのはそのためだ。隋の煬帝の時代(在位605〜617年)に、洛陽が都と定められ、宮廷の城門が伊闕と向きあうように建てられ、また古代の帝王が「龍の化身が天子」と自称したことから、伊闕は「龍門」と名づけられた。
絶壁にうがたれた厨子群 東側の香山と西側の龍門山の絶壁には、蜂の巣のような龕(仏像を納める厨子)がびっしり張り付けられ、夜空の星のようにも見えるこれらの龕は龍門石窟の壮観をさらに壮観にしている。龍門石窟がうがたれ始めたのは北魏の孝文帝(471〜499年)が平城(今の山西省大同市)から洛陽へ遷都した493年だった。孝文帝は都の位置が北方に偏っていると、統治に不利だと判断し、また中原にある洛陽が自然条件に恵まれていたことから遷都し、龍門石窟の造営にも着手した。
北魏以降、龍門石窟の造営は東魏、西魏、北斉、北周、隋、唐、北宋などの諸王朝がバトンタッチして、断続的に400年以上も続けられた。最大規模の摩崖仏寺・奉先寺は唐代に造営され、本尊・盧舎那仏の顔立ちはふくよかで、眉毛も目も細長く、口元にかすかに笑みを浮かべ、優しさの中にも威厳を保っている。民間伝説では、盧舎那仏の顔は則天武后(武則天、在位690〜705年)の容貌を写したと言われる。彼女は出家し尼になったことがあり、仏教には深い思い入れがあったようだ。盧舎那仏が出来上がった時、皇后だった彼女は「化粧代2万貫を寄進」し、群臣を率いて開眼供養に臨んだという記録も残っている。 意欲的な回族の青年ガイド 龍門石窟世界文化遺産パーク管理委員会のガイド・馬丁さん(27)の石窟史を語る熱弁はとどまるところを知らなかった。回族の馬さんは、イスラム教徒だが、仏教を尊び、石窟に対する憧れを抱いていた。10年前、数学とコンピューターの専攻だった大学を卒業したにもかかわらず、ガイドの仕事を選んだのは、収入が安定していることと、両親のアドバイスを受け入れたからだ。就職してから、ますます歴史への興味が募り、今では完全な歴史マニアだ。家には歴史モノの本がたくさんあり、本棚には『世界通史』『中国通史』『唐代タイムスリップマニュアル』などが並んでいるそうだ。 馬さんは毎朝8時20分に出勤し、午後5時半に退勤する日課を繰り返しているが、普通のサラリーマンが休む週末は逆に一番忙しい。馬さんによれば、一人前のガイドになるためには、丸暗記による解説でなく、歴史に対する自分なりの理解を加えなければならない。そこで、休暇を利用して、彼は龕の写真を撮り、気が付いたことをメモして、石窟への理解を深める努力を積み重ねている。その努力が実って、馬さんは管理委員会に所属する40数人のガイドの中で抜きん出た実力が認められ、6人の高級ガイドの1人に選ばれた。 龍門石窟をどう思うかと尋ねると、馬さんはじっと考えてから、次のように答えた。「この石窟には1000年の歴史が凝縮されています。古代人の仏教信仰と石刻芸術を伝えているというだけではなく、別な角度からみた当時の世相や彼らの精神世界を映し出しています」。これはガイドの決まり文句でもなければ、歴史の教科書や有名人の著作の丸移しでもない。日々石窟に身近に接している彼ならではの含蓄に富んだユニークな解説だ。 馬さんはさらに最高クラスの「金メダルガイド」の資格を取りたいと願っている。豊富な知識、身だしなみ、態度から、声の質まで、採点基準は厳しいが、夢に向かって一歩一歩近づいている。
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