『戦下のバレエ』は訴える

 

汪芳=文 

今年5月22日、『戦下のバレエ(战火中的芭蕾)』という映画がモスクワで開かれた中国映画祭のオープニング作品として初公開された。この映画は中ロ両国の合作作品で、ロシアの有名な監督ニキータ・ミハルコフ氏が総監督を務め、第2次世界大戦末期に中ソ両国人民が共に日本侵略軍の残留部隊に抵抗したときの感動的な物語を描き、観客を深く感動させ、第2次世界大戦の災禍をもう一度考えるきっかけになっている。

戦争はあらゆるものを破壊

この映画の物語は1945年9月に始まる。日本が無条件降伏した後、黒龍江省の国境地帯にある小さい町に潜伏していた300人余りの日本軍残留部隊が武装解除に応じず、中国に進駐したソ連赤軍に対して、天険によって頑強に抵抗していた。

中国の娘アルとソ連兵アンドレア(写真・李勇)

これらの日本軍との交戦中に、美しく、気立ての良い中国の娘アル(鵞児)と家族全員が危険を顧みず、けがをしたソ連の偵察兵アンドレアを救った。その後、バレリーナを夢見ていた彼女とアンドレアとの間に真剣な愛情が芽生えた。しかし、日本軍を捜索中に、彼女の父親、弟、おじが日本軍に殺されただけでなく、彼女とアンドレアの愛も無情な戦火に引き裂かれてしまった。

この映画の中国側監督・董亜春氏は次のように述べた。「この映画は人物を戦争の背景から浮き彫りにさせ、彼らの愛憎の描写に力を込めた。そうすることによって、人々の心の内面を容易に直撃することができ、戦争に対する反省を引き起こすことができる。戦争はあらゆる美しいものを破壊し尽くす。勝者にしても、敗者にしても、全てが破壊される」

この物語のエピローグは、これらの日本軍が消えてしまった後、アルの母親が恨みをおいて、日本人軍人の遺児を引き取って育て、残酷な戦争も善良な人間性を壊滅できないと訴えている。

日本にも想像を絶する懲罰

今年、中ロ両国は世界反ファシズム戦争勝利・中国人民抗日戦争勝利70周年記念行事を共同開催する。そうした背景の下、両国が協力して撮影した映画『戦下のバレエ』もそのイベントに加えられた。

ロシアで「人間国宝」といわれるミハルコフ監督の参加はこの映画に花を添えた。「ロシアのスピルバーグ」と称される同氏が監督した映画『太陽に灼かれて』は1995年のアカデミー外国語映画賞を受賞した。

『戦下のバレエ』の撮影から宣伝まで、同氏は多大な情熱を燃やした。69歳の彼は、4時間余ものフィルム編集の間、ずっとスクリーンから目を離さず、しばしば修正意見を述べた。董氏は「非常に真面目でプロ意識の強い人だ。この映画の芸術性を高める上で、大きな貢献をした」と、評価した。

無情の戦火で希望を打ち砕かれるアル(写真・李勇)

中ロ双方の出演者も多くの努力をいとわなかった。『戦下のバレエ』は80%が冬場のドラマであり、撮影チームは一日中でも屋外の気温が零下十数度の中国東北地区で撮影を続け、撮影器具が厳寒で「スト」を起こした時でも、出演者が雪の中で震えていた時でも、そんなことで映画撮影の質を落としていいとは誰も思わなかった。彼らはこの映画の価値を十分な形で観衆に見せたかったからだ。

この映画の主題について、ミハルコフ氏は以下のように明確に語った。「この映画は悲劇だ。多くの日本人が70余年前のあの戦争の悲劇に対して責任を持つべきだと思っていることを私は知っている。実は、日本も想像を絶する懲罰を受けている―広島と長崎に原爆が落とされ、数多くの罪のない日本人が命を失った。この映画の目的は日本をけなすのではなく、戦争がもたらす損害を心に刻み込んでもらうことだ。この歴史をしっかり記憶し、同じ過ちを繰り返さないようにすべきだ」

 

「ロシアのスピルバーグ」ミハルコフ氏

ニキータ・ミハルコフ氏はロシアの著名な映画監督だ。1945年にモスクワで生まれ、1968年から映画の演出に携わり始めた。ミハルコフ氏は美しい映像で物語を伝えることに長け、作品にはヒューマニズムがあふれている。

1976年、ミハルコフ氏はテヘラン映画祭で最優秀監督賞を受賞し、彼の作品は世界の映画界に知られるようになった。1994年の監督作品『太陽に灼かれて』は第67回アカデミー賞で最優秀外国語映画賞に輝き、カナダと米国で2億㌦以上の興行収入を上げた。

1998年、ミハルコフはロシア映画協会の主席に選ばれた。2008年10月には第21回東京国際映画祭で黒澤明賞を受賞した。

 

 

人民中国インターネット版 2015年8月28日

 

 
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