中日友好会館をめぐる物語

 

 呉錫軍会長(前列左端)は南京で杉浦正行さん(右端)ら愛知県からやって来た旧友たちと再会した

 江蘇省は中国東部沿岸の中心部に位置し、長江下流の両岸にまたがり、上海に隣接している。1980年に愛知県、92年に福岡県と友好提携協定を結んだほか、石川県や大阪府、鹿児島県とも密接に交流している。日本との間では、友好都市数でも、民間交流の規模でも、江蘇省は中国のトップを走っている。55年に設立された江蘇省人民対外友好協会はこの60年間、民間交流に力を注ぎ、大きな成果を挙げてきた。

 戦争の傷跡を癒やすため、日本の各界の人々は長年にわたって次々と南京を訪れ、犠牲者に哀悼をささげ、平和と友好の種をまいてきた。一般社団法人日中協会は86年以降、植樹団を毎年組織し、南京で「緑の贖罪」を進めている。30年近い間に数千人の日本人が5万本以上の樹木を植えてきた。沈才元・元江蘇省人民対外友好協会副会長、徐龍・江蘇省人民対外友好協会副会長(59)と植樹団発起人の白西紳一郎日中協会理事長の友情はあつかった。沈元副会長は「白西さんは植樹団を南京に毎年連れてきました。彼は以前、『もし日本の現職首相が南京大虐殺記念館を見学するなら、私の歴史的任務は終わる。そうならない限り私は毎年植樹に来る』と話していました」と振り返る。

 南京は中日関係史において特殊な都市だ。過去に深い傷を受けたため、中日双方は民間交流でより多くの愛情をここに注ぎ、友好の証を残してきた。江蘇省と愛知、福岡、石川各県の友好団体が合同で建設し、96年にオープンした中日友好会館はその一つだ。これは中国で最も規模が大きく、最も早い時期に建てられた中日友好会館だ。日本側からの資金や物資の寄付は計6億円相当に上った。会館内のエレベーターや衛生設備などは日本側が提供し、今も使われている。会館建設に大いに貢献した杉浦正行・前愛知県安城市長(78)と山﨑周彌・西尾市日中友好協会名誉会長(85)は今年、江蘇省から「人民友好使者」の称号を授与された。杉浦前市長は当時、江蘇省人民対外友好協会と会館建設に関する協定に署名し、山﨑さんは建築の専門家として設計と建設に関わった。中日双方の努力の下、会館は竣工まで1件の事故も起こさず無事に完成したため、山﨑さんはほっとしたという。この会館は今では中日交流活動の重要な拠点になっている。

 オオアラセイトウは南京の野花で、中国では「二月蘭」とも呼ばれる。39年春、大虐殺の災禍を経験した南京は見渡す限り痛ましい傷を負っていた。日本陸軍衛生材料廠廠長だった山口誠太郎さんは南京北東部・紫金山の麓でこの淡い紫色の小さな花を見つけた。この花は暴力を恐れず、平和を愛するシンボルだと彼は考え、種を日本に持ち帰って栽培し、「紫金草」と名付けた。彼は日本各地の学校や公園、コミュニティーに種を贈ったほか、麻袋を背負って電車に乗り、種に付着していた土と共に窓の外に種をまき、沿線いっぱいに紫金草を咲かせた。誠太郎さんの死後、息子の裕さんは父の遺志を継いで紫金草の普及に努め、85年の国際科学技術博覧会(つくば科学万博)で100万袋の種を配布した。98年、作詞家の大門高子さんと作曲家の大西進さんは新聞で山口さん親子の物語を知って大いに感動し、合唱組曲「紫金草物語」をつくった。この合唱組曲は日本各地の民間合唱団に歌い継がれている。

 裕さんの提案により、200人の「紫金草合唱団」が2001年春、南京で「紫金草物語」を上演した。孫曼・南京市人民政府外事弁公室アジア処処長はこの公演を今でもよく覚えている。「組曲には山口誠太郎さんのざんげの気持ちを反映した内容が含まれています。男声の先導役は涙を浮かべ、ほとんどひざまずいてその部分を歌い終えました。組曲が終わった後、観客の多くは感動の涙を流し、拍手が鳴りやみませんでした」。紫金草合唱団は十数年にわたって自費で南京や北京、上海などを訪れて公演してきた。今年はニューヨークでも公演する予定だ。

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人民中国インターネット版 2015年8月