今も鮮やかな抗戦の記憶

沈暁寧=文

蔡伝雲
1937年、中国人民抗日戦争の全面的な勃発後、中国共産党と国民党は団結して日本に抵抗した。江南地区の紅軍は国民革命軍陸軍新編第4軍(新四軍)に改編され、「八路軍」と共に中国共産党の指導する抗日武装勢力になった。 今年95歳の蔡伝雲さんはかつて新四軍の兵士として、日本軍と数十回にわたって戦った。銃声と硝煙は消え去ったが、抗戦の記憶は今も鮮やかに残っており、現在の平和を蔡さんはとても尊いものだと感じている。

祖国のため18歳で軍へ

1938年の春から夏にかけ、中国侵略日本軍は武漢を侵犯した際、沿道の村や町で残酷な掃討作戦を繰り広げた。蔡さんの故郷の安徽省含山は不幸にも災難に見舞われた。「日本鬼子(日本の畜生ども)は家と見れば火をつけ、人と見れば殺し、物と見れば奪いました。私の家も燃えて跡形もなくなりました。幸いにも家族はあらかじめ山に避難していたので、鬼子に殺されずに済みました」

「焼き尽くし、殺し尽くし、奪い尽くす」という日本軍の「三光作戦」により、現地の一般の人々は家族を失って離散した。当時、国民党の軍隊は後方へ撤退しており、人々を守れなかった。人々が行き場を失っていた時、新四軍は党中央の命令を受け、日本軍の背後に回り込んでゲリラ作戦を展開し、民衆の「救いの神」になった。

1939年2月、18歳の蔡さんは日本軍への憎しみを胸に同郷の若者たちと新四軍に加入し、祖国を守る抗日の戦場に踏み出した。

人々の支持で難局突破

「日本軍と比べ、新四軍の装備はとても劣っていました。日本軍の分隊にはてき弾筒と機関銃が最低でも1丁ずつ配備されていましたが、私たちの中隊には1、2丁の機関銃しかありませんでした。残りの武器は主に戦利品や華僑の援助に頼っていました」と蔡さんは語る。

武器だけでなく、食料も不足していた。新四軍兵士は毎日早朝と夕暮れ時に2回食事を取るだけで、大豆の塩ゆではごちそうといってよかった。戦闘になれば、丸1日少量のいり米かおこげしか食べられなかった。しかし蔡さんはとても満足していた。「私たちは豊かな江南地方にいたので、ほかに食べ物を多少見つけられました。北方の八路軍の環境はもっと厳しかったのです」

こうした状況の下、一般の人々は新四軍に最も強力な支持を与えた。彼らは新四軍のために兵たんを保障し、兵員を補充し、さらには情報伝達や作戦への協力にも関わった。ある日、蔡さんの中隊は安徽省無為の田舎で宿営した。付近の日本軍は暗がりの中で1000人以上のかいらい軍を集め、夜陰に乗じて3方向から蔡さんの中隊を包囲し、明け方に奇襲をかけようと企てた。ある民衆はちょうどその深夜、速やかに敵の動静を報告し、蔡さんらが事前に準備を整え、最終的に包囲を突破するのに極めて重要な役割を果たした。蔡さんは「新四軍が敵の背後の戦場で作戦を続け、勝利を収められたのは、人々が私たちの最も強力な後ろ盾になってくれたからです」と説明する。

8年間の抗戦で新四軍は当初の1万人余りから21・5万人余りにまで膨れ上がった。約16万人の日本軍と約23万人のかいらい軍に反撃を加えてけん制し、約2万2000回戦い、約31万人のかいらい軍を全滅させ、中国人民抗日戦争の最終勝利に大いに貢献した。しかし新四軍はこのために8万9000人の死傷者という代償を払った。

「砲煙弾雨の中、私は重いけがも負わず、死なずに済みました。とても幸運でした。私と一緒に軍に参加した同郷の人たちは生き延びることができませんでしたから」。蔡さんは物悲しげに語った。

日本の歴史否定に憤り

1985年、蔡さんは指導者のポストで軍を定年退職し、安らかな老後を楽しんでいるが、決して時事問題への関心を失っていない。近年、日本の歴史教科書改訂や政界の要人による靖国神社参拝、集団的自衛権解禁の動きなどに蔡さんはしばしば憤りを感じてきた。「70年前、中国の人々は世界の人々と共に大きな犠牲と代償を払ってファシズムに勝利し、現在の平和な時代を手に入れました。この70年間、日本の人々も平和のためにたゆまず努力してきました。しかし、日本の一部の人は絶えず歴史を否定し、真実を偽り、平和憲法を改ざんしようとしてきました。これは日本にとっても世界にとっても不幸なことです。平和を破壊するこうしたやり方を私たちは決して許せません」。戦友たちと命懸けで勝ち取った平和な時代が続いていくよう蔡さんは願っている。

 

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