憎しみ乗り越え友好望む

沈暁寧=文 

父の張自忠将軍の遺影を持つ張廉雲さん
父親は日本の侵略に抵抗して犠牲になり、夫は戦後の中日友好に心血を注いだ。北京在住の張廉雲さん(92)は日本に対し、戦中は家族を奪われた恨みを、戦後は友好の大義を感じてきた。彼女は自らの体験を踏まえ、「中日両国は二度と戦争を起こしてはならない」と友好関係の大切さを訴えている。

父を奪われ日本を恨む

1940年5月初め、日本軍は兵力30万人を結集し、湖北地域に攻撃を仕掛けた。戦況が緊迫していたため、第5戦区右翼兵団総司令を務めていた張自忠将軍は自ら1500人余りの兵士を率い、日本軍の進攻を阻止するため最前線に赴いた。

日本軍に攻め込んだ張自忠将軍の部隊は5月15日、湖北省宜城市南瓜店付近の山地で6000人以上の敵軍に囲まれた。激戦の末、この日の午後3時には張自忠将軍の部隊の兵士はほとんど戦死し、彼自身も砲弾の爆発で右脚を負傷した。彼は撤退するよう部下に何回も勧められたが、「敵軍遮断の命令を受けたのに、どうして自ら退却できようか!」と厳しい口調で断った。この間、張自忠将軍は数発の銃弾を受けながらも懸命に戦い続けていた。

双方の兵力差は圧倒的だったため、大量の日本軍は午後5時過ぎ、張自忠将軍の目の前へと突撃した。日本軍231部隊の戦闘記録によると、「第4分隊の藤岡一等兵は(中略)銃剣を構え、敵の最高指揮官とみられる大柄な将校に突進したが、その人物は血だまりから突然立ち上がり、藤岡を必死ににらみつけた」。その時、第3中隊の堂野隊長が銃で張自忠将軍の頭部を撃ち抜いた。藤岡一等兵は「銃声で我に返り、思い切って気持ちを奮い立たせたようで、全身の力で銃剣を持ち上げ、大柄な体に深く突き刺した」。張自忠将軍は勇敢に国に殉じた。享年49歳だった。

この時、上海にいた張自忠将軍の娘・張廉雲さん(当時17歳)はまだ父親との再会を夢見ていた。彼女は少し前、面会のために湖北省の前線へ行くことを許す電報を父から受け取ったばかりだった。「2年前の天津での慌しい別れが永遠の別れになるとは夢にも思いませんでした」と張廉雲さんは悲しげに語る。

中国は国を挙げて張自忠将軍の死を悼み悲しんだ。張自忠将軍は死後、陸軍上将に昇進し、第2次世界大戦中に連合国側で戦死した最高位の将校になった。張自忠将軍の妻・李慧敏さんは間もなく絶食して後を追った。彼らは一時的に重慶市の梅花山で合葬された。

両親を失った張廉雲さんは上海から重慶に移り住み、ここに移転した復旦大学に入学した。「当時よく両親のお墓の前に足を運び、2人のことを思いました。日本人のせいで肉親を失い、私は彼らを恨んでいました」と張廉雲さんは振り返る。

1945年8月15日、学校で勉強していた張廉雲さんは思いがけず日本降伏のニュースを知った。万感胸に迫り、彼女ははらはらと涙を流した。重慶の街頭はどらや太鼓の音が響き渡り、大喜びする人々で沸き返った。張廉雲さんは一人で梅花山に行き、父親の英霊を慰めた。「その時、宋代の詩人・陸游の詩の一節を思い出しました。『王師 北のかた中原を定むる日/家祭 乃翁に告ぐるを忘るることなかれ(皇帝の軍隊が中原を平定した時には、先祖を祭って私に知らせるのを忘れるな)』。父はやっと安心できるだろうと思いました」

夫通じ交流の大義知る

張廉雲さんの夫・車慕奇さん(1999年に死去)は本誌元編集長だ。日本の読者にありのままの素晴らしい中国を伝えるため、彼は数十年に及ぶ記者人生で、「人が行ける場所なら私も行ける。人が寝られる場所なら私も寝られる。人が食べられるものなら私も食べられる」という言葉を実践するよう自らに課した。

抗日戦争の前線で軍を訓練する張自忠将軍(写真提供・張廉雲)

夫の仕事に対して張廉雲さんはあまり口出ししなかったが、彼女にとって日本は長らくわだかまりであり続けた。「とても長い間、日本の国旗を見ただけで私は気分が悪くなっていた」という。

中日国交正常化に伴い、両国の文化交流や経済貿易協力、外交関係は急速に発展した。数え切れないほど多くの中国人家庭が日本の家電製品を使い始め、特に大量の日本の映画とドラマが中国で上映・放送されることで、日本に対する中国人の見方は変わった。張廉雲さんの息子、車晴さんは「先進的で丈夫な日本の家電製品や感動的で時流に乗った日本映画は当時、日本に対する私たちの反感を和らげた」と説明する。

1983年11月、車慕奇さんは『人民中国』編集長に任命された。「心と感情で読者と交流する」という長年の報道スタイルにより、彼は多くの日本人と友情を結んだ。車慕奇さんは訪中した日本人読者を自宅に招待したことがあり、今も張廉雲さんの記憶にはっきりと残っている。「清潔にしていて、上品で礼儀正しいお客さんでした。私たちは家で話したり笑ったりして、楽しくリラックスした雰囲気でした。別れる時、皆が名残りを惜しんでいました。このことで私は中日の民間の友好には真心が込もっていて、互いに隔たりがないのだと感じました」

夫が半生を懸けた中日友好事業で、両国の人々が相互理解を通じて友情を結べる。それはまさにこの世の大義の表れだと張廉雲さんは理解した。

戦争の苦痛を体験し、また友好のもたらした幸福を味わい、張廉雲さんは中日両国の平和友好の尊さと得難さを深く知った。先人が血と汗を流して手に入れた幸福を後世の人々が大切にするよう彼女は切望している。

 

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