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広州古建築散歩 | ||||||||
嶺南建築芸術の宝 広州に来たことがない人にとって、広州はたいてい近代的、前衛的、トレンディーなどといったイメージだろう。だが実際のところ、広州は中国でも旧市街の変化が最も小さい都市の一つだ。栄えていてもそうでなくても、どちらにしてもあまり手を加えられていない「昔ながらの場所」を歩くと、この広州という街の「本当の顔」がもっと見られることだろう。 陳家祠は清の光緒14(1888)年に建設が始まり、7年の歳月をかけて光緒20(1894)年に落成した。その建築構造は突出した嶺南建築様式の特徴を有し、「三進三路六院八廊」と要約される。「聚賢堂」は陳家祠の中軸線にある主殿堂で、建築群全体の中心に当たり、建設当初は一族の集会に使われていたが、後に宗祠となり、両側の書房は書院として使用された。陳家祠の中で最も人目を引くのは間違いなく、祠堂の屋根や広間、中庭、廊下に配置された石灰塑像と陶塑像だ。大小入り交じって情趣に富み、それぞれが生き生きとして色とりどりで美しく、見切れないほどである。モチーフは花鳥や瑞獣、あずまや、楼閣などのほか、『三国演義』や『水滸伝』など歴史文学中の人物像もある。著名な文学者・歴史学者・政治家である郭沫若氏が陳家祠を訪れた時には、その豪華絢爛な建築装飾芸術に感服し、「天工人可代、人工天不如(天の作ったものは人が代わることができ、人が作ったものは天もかなわない)」という詩を作り賞賛した。 文化が蓄積された西関 「西関」は、市中心部の北は西村から南は珠江まで、東は人民路から西は小北江までの範囲に対する生粋の広州人による呼称で、西門の外にあたることからこの名前がついた。広州の何千何百年もの歴史の蓄積によって生まれた豊かな地域として、嶺南文化の神髄もここに深く根を下ろしている。つまり、西関は本場の広州の昔日の雰囲気を体感するのに欠かせない場所なのである。
明清時代、西関は広州の商業貿易の中心地であり、当時の名門豪族や官僚、豪商が集まる場所であった。彼ら豪族や豪商は、西関一帯で数多くの豪邸を建て、庶民はそれを「西関大屋」と呼んだ。西関大屋の多くは木骨れんが造で、灰色れんがと石でできた壁を持つ。全体の配置は細長く、屋根が高いため風通しがよく、冬暖かく夏涼しい。最も典型的な間取りは三つの部屋と左右二つの短い通路からなる「三間両廊」で、左右対称、真ん中がメーンの広間だ。西関大屋の門の造りはとりわけ特徴的で、脚門、趟櫳、大門の三重扉になっている。そのうち趟櫳は移動式の柵のような外観で、13本あるいは15本の硬い木の棒でできており、横にスライドして開け閉めできる。換気と防犯の機能を持ち、街の騒々しさと一線を引くと同時に外界とのつながりを保つという、嶺南独特の風格を持っている。
もしも西関大屋が「貴族」的な雰囲気を帯びているというなら、西関のもう一つの建築様式である「騎楼」は完全に広州の庶民生活の濃厚な息遣いを反映しているといえるだろう。騎楼は店舗と住居を合わせた建築で、19世紀末から20世紀初めにかけて現れ、西洋建築と嶺南伝統文化とが結合し変化したものだ。騎楼は雨が多い広州の気候に非常に適合しており、高くて広い通路は雨や日光を遮ることができ、さらに商品の展示に便利で、商売繁盛にもつながる。このため騎楼はあっという間に広州の街全体に広がり、1920~30年代には街の景観の主役となっていた。
現在でも、上下九は騎楼建築の保存状態が最も良いエリアの一つである。上下九は、上九路と下九路、第十甫路を合わせた名称だ。今ではここに多数の商店が集まり、通りは人々が押し合いへし合いするほど混み合い、広州で最も人気のあるショッピングストリートとなっている。各種高級百貨店をはじめ、蓮香楼や陶陶居、広州酒家といった老舗レストランも軒を連ねる。ここでは、高級ブランド商品を購入することもできるし、バーゲンショップで散財することもできる。100年続く老舗レストランで伝統的な豪華広東料理コースを味わうこともできるし、種々の小さな店で本場の広東小吃(軽食)に舌鼓を打つこともできる。まさに、さまざまな事物を包容しつつ、各自必要なものを取り入れるということが、広州という街の精神の在り方なのである。
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