詩人たちが暮らした路地

 

 

長沙市天心区の太平街に「太傅里」と呼ばれる古風で静かな路地がある。言い伝えによれば、中国古代史において名声をとどろかせる2人の政治家兼文学者がここで暮らしたという。屈原と賈誼である。

太傅里はもともと濯錦坊といった。楚や漢の時代、都市住民の居住区は坊と呼ばれていた。屈原がかつてこの坊に住み、隣近所の人々とよく語り合い、古井戸のそばで汚れた着物を洗ったことから、濯錦坊という名前が付いたという。

屈原(紀元前340~前278年)は戦国時代末期の楚国に生きた人物だ。中国史上で最初の偉大な愛国詩人で中国ロマン主義文学の創始者である。貴族による排斥や中傷のため、長い間流浪の生活を送った。長沙滞在中、国家の運命を心配し、国と民を憂い、『離騒』や『九歌』といった不朽の詩作を残し、後世の詩歌に多大な影響を与えた。紀元前278年、秦国が楚国の首都・郢(今の湖北省江陵)を攻め落とすと、屈原は悲しみと怒りのため、汨羅江(今の湖南省岳陽管内)に身を投げて亡くなった。

秦が楚を滅ぼした後、秦の始皇24年(紀元前223年)に長沙郡が設置され、長沙はこれにより全国の行政区画に組み込まれた。前漢時代に長沙国が設置されると、約200年間続く諸侯の封国となった。一代の名士である賈誼(紀元前200~前168年)は長沙王の太傅として左遷され、100年前の屈原の足取りを追って長沙に着き、彼が洗濯をした場所に居を構えた。賈誼は漢賦の創始者であり、有名な『弔屈原賦』をつくって屈原を追想した。この2人が湖湘文化の形成に絶大な影響を与えたことにより、長沙は「屈賈の里」と称されるようになった。

1970年代初め、長沙市の東の郊外で発掘された「馬王堆漢墓」は中国の国内外を驚かせた。長沙国丞相の利蒼とその家族を埋葬したこの墓から、完全に保存された女性の遺体(ミイラ)が出土したためだ。考証によると、利蒼の妻の辛追だという。出土したとき、遺体の軟部組織には弾力があり、関節が動き、血管がはっきりと見えた。世界の考古学史上、初めて発見された腐敗していない「湿屍」といわれるミイラだった。これとともに出土した絹織物や帛書(絹布に書かれた文字)、帛画(絹布に描かれた絵画)、漆器など3000点余りの文化財は、漢代の歴史研究に重要な資料を提供し、また一方では長沙という「楚漢の有名な町」のしっかりとした歴史的蓄積を証明することともなった。

 

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