忘れられぬ歌

小嶋心

 

蝉の歌。初めて聴いた時、あまりに純度の高い歌声にしばらく身動きできなかった。

テレビのモニターには中国貴州省千里村の古い町並みや天高く聳え立つ鼓楼が映し出されている。それはまさにアジアの原風景の如く、息を飲む美しさだった。そしてスピーカーから私の耳に伝わるそこに暮らすトン族の大合唱。壮麗な楽器による伴奏があるわけでも、音響設備の整ったホールで歌っているわけでもない、だが、幾重にも重なる歌声は何か特別な響きをもって感じられた。彼らを取り上げたあるテレビ番組は私の視覚聴覚をこれまでになく刺激して心を掴み離さなかった。

トン族の歌声の余韻がまだ微かに耳に残るなか、私はあの合唱は何を歌ったものなのか、さらには実際にその場に行って聞いてみたいと思い、「千里村 トン族」とインターネットで検索をかけてみた。すると、ある事実に突き当たった。それは、トン族は文字を持たないということだ。当初、これが何を意味するのか全く見当がつかなかった。文字は我々人間の最も根本的な生活基盤の一つであり、そもそも漢字は中国産のものではないかと疑問が頭の中を駆け巡った。漢字の発祥の地で文字を使わない民族がいることは矛盾したことのように感じられた。

私は今年の春から大学に進学し書道を専攻している。研究対象となるのは、いうまでもなく文字である。中国では同時代でありながらチベット自治区と北京では字の書きぶりが全く異なるなど、中国書道は数ある書の分野の中でも比類なく面白いと思う。文字研究をする立場の私にとって、文字はこれまで今も昔も最もシンプルで正確なコミュニケーションツールで文明の発展を担ってきたと考えてきた。況や中国ではなおさらだと信じて疑わなかった。それ故、蝉の歌を聴き、トン族の文化に触れたことは私の中でイデオロギーを覆す大きな事件だったといえる。改めて多様性に目を向けなければならないと思った。広大な中国は、語り尽きることのない様々な慣習、民族が紡ぐ多くの文化が点在するヴァラエティに溢れた国家だからだ。

トン族は650年前、明の戦乱から逃れて千里村に住むようになったそうだ。当時、既に文字は十分に確立され、現在同様当たり前のように使われていただろう。でも、トン族は文字で記すことを選ばずに、伝達手段を歌に託した。今でもトン族の大人がまだ幼い子供達に蝉の歌を教えている日常風景は、歌はまるで文字を超越した伝達能力を秘めているかのようである。

昨今、SNSを先駆けとして文字のみによるコミュニケーションはますます発展の一途に思われる。人と対面する時間が日に日に失われ、スマホやパソコンに取って代わられるような恐怖心さえ感じる。

書は私なりに文字をただ書くのではなく心を込めるからそこに美が立ち現れてくるのだと思う。普段ごくありふれた文字にどれだけ印象付けをできるかが私の日々鍛練するところである。コンピュータが普及した今日、書はアナログだと言われ、上達する意義を疑問視する声もある。しかしながら、心をこめた字は、ワープロの活字には表現できない、文字のその字義だけでなく書き手の思いを伝達することができる。それは、まさにトン族の蝉の歌に彼らの思いを汲み取れたのと同義である。書もトン族の蝉の声も時代を超えて繰り返されることで現在も日々洗練されてゆく。

現在インターネット上に飛び交う活字は瞬時にして情報を交換できる利点から、多くの人が手先のスマホの情報に目を食い入りがちであると思う。だがそこに人の心は見えてこない。スマホの文字の羅列に心を動かされた経験は振り返ってやはりない。なんだか、寂しさがこみあげてきた。

トン族の蝉の歌は、この世界の断片としての多様性とともに世界共通の社会を包含する人と人との思いについて教えてくれた。思いを伝えるという行為は、あらゆる国や地域でその手段は違えど、世界中で時代を超えて変わらずに行われてきた。しかしながら今、その人と人との思いの伝え方が徐々に消え去ろうとしている。今を生きる私たちがトン族に学ぶことはとても多い。

私たちが大量の言語情報に包まれてせわしなく誰かとやりとりしている今も、千里村では美しい歌声が響いているのかもしれない。

今一度悠久の中国に思いを馳せトン族の歌声に耳を澄ましたい。

 


人民中国インターネット版

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