歴史と未来を考える出会いの旅

――第4回Panda杯受賞者の中国見聞

 

2017年度第4回Panda杯全日本青年作文コンクールが滞りなく終了した。今回のコンクールは前回に引き続き「@Janpa  私と中国」をテーマに行われ、過去最多となる498点の作品応募があった。その中から優秀賞10人、入選賞5人、佳作賞40人、団体賞3人が選ばれた。受賞者たちは東京の駐日本中国大使館で授賞式に参加した。その後、受賞者15人から成る訪中団が人民中国雑誌社の招きに応じて訪中し、北京、天津、南京、上海を訪れる1週間の「出会い」の旅を満喫した。

 

大きな期待を胸に旅立つ

 

10月16日と17日、作文コンクールの授賞式が東京と北京で行われた。

「紙上得来終覚浅,絶知此事要躬行(紙に書いたものはあくまで浅く、身をもって実践することを怠ってはならない)」。中国外文局の方正輝副局長は北京の授賞式でこのように述べた。「今回の訪中は身をもって中国を体感するいい機会だ。この機会を通じて中国を観察し、中国の若者との交流を楽しみ、ぜひとも中国と中日関係に対する理解を深めてほしい」。駐日本中国大使館の劉少賓公使も前日に東京で行われた表彰式で訪中団に対する期待を語っていた。「皆さんには今回の訪中期間中、いろいろな場所に足を運び、よく見てよく聞いて、日本に帰った後、その内容を身の回りの人たちに伝えてもらいたい」。日本財団の尾形武寿理事長は、「日中はお互いに相手の国をしっかりと理解することが重要である」とした上で、「皆さんには実際に自分の足で中国の地を踏んで等身大の中国を見てきてほしい」とのメッセージを送った。また、「継続は力なり。Panda杯のような両国の相互理解を深める活動をぜひこれからも継続してほしい」と活動に対する期待を語った。日本科学協会の大島美恵子会長も、「訪中期間はわずか7日間だが、そこで築いたつながりが今後に続くとしたら、決して短い時間ではない」と訪中交流の意義を示した。そして、青年たちと共に旅に出る訪中団の和﨑春日団長は自分がアフリカ研究に携わる日々の中で感じ取った歴史や文化などの面においての中国パワーを青年たちと分かち合い、青年たちがそのようなパワーを今回の訪中交流の中でたくさん見つけ、進んで学んでほしいと語った。

今回、初訪中を果たした受賞者代表の小嶋心さん(18)は、「作文を書いていた間に、さまざまな中国の魅力に触れた。今日、初めて中国の大地を踏み締め、周りのあらゆるものが新鮮に感じられる。これからの1週間、目で見て、耳で聞いて、心で中国を感じて、この国が自分に与えてくれる刺激を記憶に残して、周りの人にも伝えていきたい」と語った。

こうして大きな期待を胸に、訪中団は驚きと感動に満ちた旅路に就いた。

 

先人の足跡をたどる

 

訪中団一行は北京をたった後、周恩来の第2の故郷、天津を訪ねた。1917年の夏、若き周恩来はこの地から日本に向かい、国を救う道を歩み始めたのだった。青年たちは周恩来とその妻・鄧穎超を記念する周鄧記念館を見学し、周恩来の生い立ちと日本との深いゆかりについて学んだ。特に、周恩来の日本留学当時の様子を紹介する部分に青年たちは一番興味を示した。

周恩来の日本での留学は奮闘の日々だった。毎日、読書に明け暮れる中、たった一つだけ怠らないことがあった。それは日本社会に対する観察だ。しばらくして帰国を決めた周恩来は、帰り際に京都に寄り、『雨中の嵐山』という有名な詩を残した。この詩には、国を救おうとする周恩来の大きな抱負がつづられている。こうした抱負は、日本滞在中における日本人との付き合いや、マルクス主義者たちとの出会いに由来するものだ。日本での生活によって彼は迷いから救い出され、中国の歩むべき道を見いだした。人々に広く知られている嵐山の記念碑はこうした背景の下に建てられたものだ。今や、この記念碑は中日友好の証しとして、静かにその歴史を物語っている。

新保清美さん(21)は、「周恩来総理がそれだけ中国を愛し、強く平和を求める人格者であったのだと感動し、妻でもありよき同志でもある鄧穎超との人生や2人の民衆目線で闘われてきた姿に感銘を受けた」と語った。また、中島大地さん(24)は「中国と向き合うときには歴史をしっかりと理解してそれを踏まえる必要があるとよく聞くが、これからさらにしっかりと中国の歴史も理解したいと思う」と話した。周恩来の20世紀における日本との出会いが訪中団の共感を呼んだ。青年たちは、中国の革命に尽くした先人の偉大さと中日両国における深い歴史の絆をあらためて感じ取ることができたのだ。

先人の足跡をたどって次に訪れたのは上海。四川北路と山陰路の交差点に、一見、何の変哲もない2階建ての建物がある。壁には「内山書店旧跡」と書かれたプレートが掛かっており、日本の青年たちはそれをしばらく見つめていた。この場所は、魯迅と彼の日本の友人・内山完造の10年にわたった友情を物語る場所だ。内山完造は書店経営を始める前に薬の販売をしていたことがある。そのため、魯迅はかつてこの親しい友人に贈った詩の中で、「有病不求薬,無聊才読書(病気になっても薬を使わず、暇なときだけ本を読む)」とユーモアたっぷりに当時の社会状況を描写した。このように、2人の友情は国境を越えて長く語り継がれている。

中日関係がどんよりとした雲に覆われた時代でも、魯迅は決して中日友好の未来を疑わなかった。中国に対する軍国主義の侵略を強く非難したが、隣国の人々との誠実な友情を粗末にはしなかった。訪中団員はこの話を聞いて、強く心を打たれたようだった。

中島さんは、「魯迅と内山完造の友情からも分かるように、人として向き合えば人の温かさが伝わり合い、国籍にとらわれない協力が成り立ち、きっと分かり合うことができるはずだ」と感動の言葉を残した。

 天津から上海へと移動し、20世紀における中日関係と深い関わりを持つ2人の偉人の物語を聞いて、日本の青年たちは深く感動した様子だった。そして、「両国の人々の努力があれば、中日関係はきっと明るい未来を迎えることができる」と、両国の相互理解に大きな自信を持てるようになった。

 

歴史の傷痕を残す城壁で

 

次に訪中団一行がやって来たのは南京。ここは歴史の余韻と高層ビルが交わる包容力あふれる町であり、中日関係にとって重要な意義を持つ町でもある。ここで訪中団は南京大虐殺遭難同胞記念館を訪れ、彼らにとって重大だが詳しくは知らなかった歴史に触れることになった。

記念館では始めに館長との座談会が開かれた。張建軍館長は日本の若者たちに、歴史を銘記し、未来へ向かう重要性を語った。彼は歴史に対する日本の態度を、荷物を背負って川を渡ることに例えた。「中日間において、歴史問題は川のような存在だ。渡るしかない。しかし川を渡る日本人は、まず背負った荷物を下ろさなければならない。否認や反論する気持ちで歴史を見ているなら、川の水が染みてきて、荷物はますます重くなる。南京の歴史を認め、客観的に見つめることは、日本が素晴しい国であることを否定することにはならない」

展示室に入った青年たちの表情は次第に厳しいものになった。当時の悲惨な場面を記録した写真を目の当たりにして、彼らは大きな衝撃を覚えた。ペンとノートを握り締め、今まで触れることのなかった歴史を少しでも多く頭に刻み込もうとしていた。

大西栞奈さん(17)は、「今日、実物を目の前にして、これが歴史の一部分だということを実感した」と話した。加藤亜衣さん(24)は、「これらを中国人の友人は学んでから、日本の歴史と日本語を専攻して日本に留学に来てくれて、日本人である私を『家族のような存在』だと言ってくれた。日本人であるのに、中国と日本の歴史を十分に学んでいなかったとあらためて感じた」と中国の友人との付き合いを思い返し、しみじみと語った。

見学の際に訪中団員が見せた感情は、他の見学者や中国メディアの注目を集めた。ある見学者は記者に、「このようにきちんと歴史と向き合える日本の若者の姿を見て、中日関係の未来は明るいものだと感じた」と言った。

その後、南京城の城壁の下までやって来た訪中団。歴史の重みと風情を物語るこの壁には、まだ戦争の爪痕が残っている。侵略による破壊から城壁を救う建て直しは中日共同で行われた。

中日共同修復作業を発案し、実行したのは当時日中友好協会の会長だった画家の平山郁夫だった。その年はちょうど反ファシズム戦争終戦50周年の年で、平山はこの修復作業を通じて、日本がこの南京の町にもたらした傷を少しでも癒やそうとした。その後3年間、日中友好協会は日本国内で多くの人々を募り、積極的に修復作業に参加するよう呼び掛けた。また大規模な募金活動も実施した。その結果、城壁修復作業のボランティアのために南京へ赴いた日本人は2万人を超え、日本からの募金は7千万元を超えた。

平山郁夫は言う。「南京城壁の修復活動に携わるのは、単なる文化遺産の保護のためだけではない。それをはるかに超える大きな意義があるのだ」

平山郁夫はこの活動を通じて、歴史問題によって中日両国の国民の間に立ちはだかっていた心の壁を取り壊し、中日の和解へと通じる懸け橋を築き上げたのだ。天気の良い午後、訪中団一行は南京大学の学生と共に城壁に登った。彼らは中日両国民の共同修復によって築かれた友好の歴史を物語る城壁をしっかりと踏み締め、共に中日友好の意義について考え、語り合った。苦難を経験した人は平和を強く望む。歴史の傷跡を背負う町もそうだ。平和を望むこの町で、中日両国の青年たちは苦難の歴史を心の底にしまい、共に明るい未来へと歩み始めた。

 

未来のため交流の種をまく

 

先人たちの足跡をたどることも、歴史の傷痕に直面することも、未来へ向かって中日友好の種を受け継いでいくためだ。そのために、中日友好の第一線で活躍する先輩たちの話を聞き、相手国の同世代と考え方を理解し合うのは、とても重要なことである。

「中日友好の基礎は、両国民の間に広く深く根付く友情であり、民間交流の広がりは、後に中日友好を促す大きな力となる」。元中国文化部副部長の劉徳有氏は、訪中団一行のために外文局で講演を行った。1950年代から今に至るまで、劉徳有氏は中日友好事業に力を尽くしてきた。その半世紀にわたるエピソードが語られた。講演を聞いた新斗米創さん(19)は、「先人たちが受け継いできた友誼の懸け橋を今度は私たち若者が受け継いでいかなければならないと自覚させられた。この訪中を機に中国の人々との交流を大切にしていきたい」と感無量の様子だった。

劉徳有氏の言うように、共通点を求めると同時に、異なる文化も伝えなければならない。交流において重要なのは伝えることだ。講演の後、日本の青年たちは中国の大学生たちと若者同士の対話をし、中日におけるさまざまな話題について意見を交わした。中日関係における青年の役割から就職、生活、恋愛などの身近な問題まで、両国の青年たちは何でも語り合い、考え方のぶつかり合いを通して深く相手を知り、そして相手にも自分を知ってもらった。

南京訪問の期間中、訪中団の引率を担当した南京市外事弁公室アジア処の孫曼処長も長年にわたり中日友好に努めてきた一人だ。8歳の時、南京小紅花芸術団の団員として、日本へ演奏ツアーに赴いたことがある。その時に日本人の優しさと親切さを感じ、彼女は日本に好感を抱いた。そうして、独学で日本語を学び、南京市外事弁公室に就職し、中日交流の仕事をするようになった。今年、彼女の息子の呉嘯風さんもめでたく南京大学に合格し、9月から日本文学を専攻し始めた。彼もまた今回の交流活動に参加していた。

出会いと感動に満ちた旅も終わりに近づき、訪中団は最後の2日間を上海で過ごした。日本帰国の前日、一行は上海環球金融センターを訪れた。ここで、森ビル株式会社特別顧問の星屋秀幸氏は、自らの40年近くの中国体験を交えて、青年たちに次のような問題を提示した。「中国は空高く昇っていく龍である。日本は、中国とうまく付き合い一緒に昇っていくのか、それともこのまま落ちていくのかという選択を迫られている」。7日間の訪問交流を通じて、日本の青年たちはこの問題について、深く考えることができただろう。そして、もう自分なりに答えを出している人もいただろう。

中日間の本当の相互理解は、長く、そして険しい道のりの向こうにある。この道を歩いて行く者として、訪中団の青年たちは今回の訪中を通じて、中国に対する見方が変わったとよく口にした。鈴木あかねさん(19)は、「最初に来るときは結構心配していた。でも来てみたら全然違って、(中国人は)日本人以上に人のことを気にしてくれて、すごくいい人たちだと思った。今後どうやってこのことを伝えていくかということが自分の中の課題だ」と、今回の旅を通しての考え方の変化を語った。

訪中団が北京を出発し、出会いの旅路に就く前、人民中国雑誌社の陳文戈社長は、「それぞれ独自の視点から中国を観察し、体と思考の両方で、そのままの中国に触れてほしい」と彼らの旅に期待を寄せた。また、人民中国雑誌社の王衆一総編集長も青年たちに中国を感じ取る極意を伝えた。「できるだけたくさん、聴く、見る、考えること。読む、飲む、歩くこと。撮る、書く、伝えること」

日本の青年たちは旅の過程で、偉人と出会い、歴史と出会い、未来と出会った。そして今の中国をたくさん見て、考えて、記録した。これらの思い出は全て中日友好の種となって彼らの心の中に根付き、後に大きな美しい花を咲かせることだろう。

 


人民中国インターネット版

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