街角で育つ新しいカルチャー

2020-04-24 18:48:23

 

『原宿ジーンズ――日本のストリートファッション50年』(日本語版のタイトルは『AMETORA(アメトラ)日本がアメリカンスタイルを救った物語』)

(米)デーヴィット・マークス著、呉緯疆訳

上海人民出版社 2019年7月第1刷

劉檸=文

 東京オリンピックのにぎわいが再びやってくる。前回の東京オリンピックの時に流行の最先端にいた若者たちは、もういい年になっているものの、今でも身だしなみに気を使う人が多い。銀座、青山、六本木、代官山で、しばしばスーツに革靴、あるいは凝ったカジュアルウェアを着こなすスマートな姿を見掛ける。

 銀座に「みゆき通り」という目抜き通りがある。この通りは、1964年の東京オリンピック直前の時期には、「親不孝通り」と呼ばれていた。週末になると、ここには多くの「変人」が出没した。若い男性は髪を七三に分け、しわくちゃのジーンズ地のシャツを着ていた。襟元を小さなボタンで留め、洋服のジャケットのみぞおち部分には余分な3番目のボタンがあった。服の柄はとても派手で、ツイル素材のパンツは普通より細身につくられ、裾の長さは7分から9分で、膝丈の長い黒靴下と複雑な模様の入った革靴を履いていた。女性はワンピースを着て、腰のベルトを後ろで蝶結びにし、ハンカチを頭に巻いて、濃い色のストッキングとぺたんこの革靴、またはビーチサンダルを履いていた。このスタイルは、英語で「ツタ」を意味する「アイビー」と呼ばれた。「みゆき族」と呼ばれた若者たちは、集団で現れ、ただたむろして、店のショーウインドーの前に立っておしゃべりをしていた。彼らは中産階級の良家の子どもたちであるが、家で勉強せずに、街角をうろつき、銀座の百貨店などで両親が苦労して稼いだお金を湯水のように使ってしまう「親不孝者」だった。

 オリンピックを目前にし、みゆき族が出現し、世論の緊張を引き起こした。人々はこのまま野放しにすれば、銀座が「悪の温床」になってしまうのではないかと恐れたのだ。そのため、9月のある土曜日、警察が出動し、200人ほどのみゆき族を逮捕した。

 みゆき族は警察に取り締まられたものの、米国の進んだ文化に対するあこがれは日本にしっかりと根を下ろした。みゆき族が一掃されてから間もない10月10日の東京オリンピック開会式、日本人全員がテレビで、日本チームの選手たちがみゆき族のシンボルである、三つの金ボタンのあるカジュアルな洋装で開幕式に現れるのを目にした。

 みゆき族の例はただの縮図にすぎない。流行服を代表とする戦後の日本のファッション工業の発展は、基本的に「米国化」の過程であり、アイビーリーグの学生スタイル、ジーンズファッション、ヒッピースタイル、西海岸のスポーツウェア、50年代のレトロファッション、ニューヨークストリートファッション、そして旧式の作業服などが数十年間にわたって次々と日本に入って来て、東洋社会の景観を変え、そして逆に世界ファッションに影響を与えた。今日、米国に源を発する日本のファッションスタイルは、「アメリカン・トラディション」の略語である「アメトラ」と総称されている。

 こうした変化を突き動かす原動力となったのは、往々にしてプロのファッションデザイナーではなく、企業家、輸入業者、雑誌編集者、イラストレーター、スタイリスト、ミュージシャンといった人々である。ファッション工業製品の一つとして、生産ラインよりも先にあったのは都市の街角であり、街角こそが新しいカルチャーを生み、育てた場所だったのだ。みゆき族がそうであっただけでなく、その後に生まれたクリスタル族、おたく族、渋谷系、原宿族などの〇〇族(系)青年のサブカルチャー現象は、全てそうであると言える。これは70年代に青年文化の首領と目された寺山修司の本、『書を捨てよ、街に出よう』を連想させるものだ。

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