戦前の建築史にみる日本の折衷主義

2020-06-09 14:50:45

劉檸=文

 

『日本建築小史』

伊東忠太 著 楊田

清華大学出版社 2019年3月第1刷

 1944年に出版された『日本建築の実相』は、厳格に言うと、もうすでに建築通史とは呼べなくなっており、戦前の日本建築史にすぎない。しかし、日本の建築が戦後大成したとはいえ、その「現代化」の過程は、明治維新から始まったもので、早くも戦前にはすでに歩むべき道は歩んでおり、第1次西洋化は完成されていた。明治後期から大正期にかけて建てられた洋館は、建築史上の古典となっていて、関東大震災後の帝都再建計画の中で完成した公共建築の多くが、機能性と美観を一体化した折衷主義の傑作であり、今でも現役のものもある。まさにそのために、戦前の日本建築史はまだ時代遅れではないだけでなく、日本建築の古今を通じた伝統をより整理しやすいものとなっていて、明治維新以降の西洋化の軌跡を浮かび上がらせている。

 著者の伊東忠太は、当時の建築史の泰斗であり、彼は日本建築の発展史を3期に分けて捉えている。第1期は仏教伝来以前の建築で、それを純正日本建築時代と呼んでいる。第2期は仏教伝来から明治維新までの仏教時代である。第3期は明治維新以降の時代である。中でも第2期はさらに前期と後期に分けることができ、第1分期は仏教が平安朝に浸透した後、中国の六朝と唐代の文化を吸収し、それを日本化させていった時代で、第2分期は、鎌倉時代から江戸時代末期までで、中国宋代の文化を吸収し、それを現地化した時代である。

 著者から見ると、「それは賢明なる日本民族が唐文化の優秀なることを看破するの明を以て、流れ来た大陸の獲物を一つも残さず一網のうちに捕獲したのである。しかもこれを日本的に料理して舌鼓して存分に腹を肥やしたのである」。これは確かに日本が外来文化を取り入れる際の態度であり知恵である。例えば、日本が中国から唐風建築を取り入れた際、中国のような木とれんがと土が混在する構造を取らず、自分の伝統的強みである純木造建築を保ち、この基礎の上に日本化を加えた。西洋建築は左右シンメトリーを強調するものだが、日本人は100%のシンメトリーを嫌い、あえて非対称の構造とし、「それにより一種の含みを持った味わい」が生まれた。

 このため、第2期であろうとも、第3期であろうとも、全て第1期のいわゆる「純正日本建築」の上に建てられた日本化した舶来建築であり、それは思想文化の上での「和魂漢才」から「和魂洋才」まで、中心となる物は一貫して「和」であり、「漢」や「洋」ではなかったのと似ている。

 文献の記載によると、日本には1000年以上の歴史がある木造建築が現在に至るまで、30棟余り残っている。さまざまな時代の神社仏閣、邸宅や庭園、茶室やあずまや、そして皇居、城郭、陵墓に至るまで、共に日本独自の「景観社会」を構成し、日本の都市を世界でもまれな「建築博物館」としている。この点について、『日本建築の実相』の中では、「3期共存共栄」説をとり、以下のように記述している。

 「試しに日本の今日の建築界を見渡せば、一見すこぶる雑然たるが如くに見えるであろう。大都市に於いては、大廈高楼が櫛比しているが、それは欧米式のもので、いわゆる第3期の建築である。しかるにこれと隣接して、昔ながらの中国の威化による仏寺や塔が聳えている。それはいわゆる第3期の伝統である。三期三様の建築が睦まじく相携えていにしえを語っているが如くである」

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