西川美和と彼女のX

2020-09-07 16:12:31

 

西川美和:围绕电影的X

『映画にまつわるXについて』

西川美和 著 呂霊芝

湖南文芸出版社 2019年12月第1刷

劉檸=文

 日本の旧世代の映画人の中で、監督(あるいは演技)をし、脚本も書く多才な人は少なくないが、中堅世代の中では、まず是枝裕和だろう。その次に挙げられるのは女性監督、西川美和だ。

 是枝と同じように、西川は映画の監督をし、脚本にもほとんど自らが携わっている。一部の作品は、構想段階においてすでに、小説の発表から脚本への改編、そしてスクリーンに上げるまでの道筋がつけられていて、極めて高い完成度を追求しているように思われる。例えば2016年に公開された『永い言い訳』は、前年に発表された小説が原作となっている。この小説は文芸春秋社から出版され、直木賞候補となり、18年9月には中国語版も発表された。

 西川のエッセイを読むと、しばしば自分への「酷評」に気付く。日本の女性作家特有の「低姿勢」以外にも、自らをネタとして笑いを取るものだ。男性作家にはよく見られるものの、女性作家では極めてまれといえる。例えば、彼女は14歳の時に初めて村上春樹の『風の歌を聴け』を読み、主人公の男性が「一夏中かけて、僕と鼠はまるで何かにとりつかれたように25メートル・プール一杯分ばかりのビールを飲み干し……そしてそれは、そうでもしなければ生き残れないくらい退屈な夏であった」とあるのを読んで感銘を受けた。しかし、彼女は主人公や鼠と同じ年齢の頃をのんびりと過ごし、文学好きな若者たちがみな経験することを経験した後、「『ビールなんて、人生に必要なんだろうか?』そんなことをぼんやりと考え始めた頃、私は既に幾度か胃潰瘍も経験し、プールはおろか、グラス一杯のビールを飲むのにも時間がかかるようになっていた。憧れたはずの『僕』は、気づいたら一回り近く年下の男の子だった」と自嘲気味に語るのだ。

 25歳の時に初めて映画の脚本づくりを試した後、さまざまなことに取り組んだことで、作家であり監督でもある、監督であり作家でもあるという西川の多彩な役割が完成した。こうしたさまざまな肩書により、西川の文章は「純粋な作家」に比べてより映像感あふれるものとなっている。例えば映画『ゆれる』製作について述べた章の中で、彼女が書く香川照之はとりわけ生き生きとしていて、撮影ライトの下の現場感を常に感じさせるものとなっている。文中の彼女と香川のやりとりには、思わず笑ってしまう。

 名監督・作家といった肩書はあっても、西川の内心には平凡な女性にすぎない一面があり、本人は気付いていないにしても、そうした姿を垣間見せることがある。この本の中で、彼女のそういった性格がよく現れているものとして、裸体問題に対する理解がある。

 ある時彼女は、かつてSMの女王の異名を取った女優、谷ナオミを訪ねて、わざわざ熊本まで行った。谷の店の中で、西川は彼女に、カメラの前で当時と今を語ってもらえないだろうかと頼んだが、拒絶された。なぜなら谷は「お客さんの夢を壊したくない」からだという。西川はもちろん簡単には諦めず、彼女に「今も十分おきれいですが」と食い下がった。

 谷は「あの頃は、お客さんに見てもらう体だったので、普段の体の管理は残酷といえるまでに厳しく、そんな女性は現実の中には存在しないのだ」と答えた。谷からすれば、引退後、以前よりもケアを怠った姿を気軽に人前にさらして話すということは、客に対する「裏切り」のようなものなのだ。引退した女優の芸術と現実に対する洞察に、平成時代の女性監督は尊敬の念を抱き、「やわ肌の一枚下は鉄壁の九州女。それ以上は、二の句も継げなかった。……裸になるということは容易ではないのだ。容易な裸には、価値がない」と記している。 
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