日本語は果たして曖昧か

2019-11-28 19:16:41

劉徳有=文

新聞記者として日本でお世話になっていた頃、よく耳にした言葉に、「日本人は曖昧である」「日本語は曖昧で、ロジカルでない」というのがある。

少なからぬ日本と外国の学者がいろいろと言葉を分析して、日本語そのものが曖昧模糊としており、あまりロジカルでないと指摘している。確かに日本人は含みを持たせて婉曲に話すのを好み、「以心伝心」を重んじることに定評がある。日本人の話は、往々にして、口に出さなかった部分、つまり「以心伝心」の部分を理解しなければならないとよく言われるが、正直言って判断に苦しむこともしばしばである。

新聞記者時代に、国会に出向いて首相の答弁を取材する機会がたびたびあった。首相が好んで使った言葉に「前向きに検討する」というのがあったが、具体的に、どのように「検討」するのか、曖昧である。「前向きに検討する」という日本語を中国語に翻訳して本国に打電するときは、本当に困った。「向前看地行研究」という中国語の表現は熟しているとはいえない。英字新聞を見ると、「前向き」は「積極的に」と訳してあったが、「前向き」と「積極的に」は同じではなく、やはりある種の含みを持たせた言い方であると思う。

また、新聞記者にとって困る会話にぶつかることも、しょっちゅうだった。経済界の人に、「景気はどうですか」と尋ねると、「まあ、ぼつぼつといったところです」という返事が来たが、この「ぼつぼつ」は、どのくらいの程度か。聞く方がヤボかもしれない。日本人なら、「ぼつぼつ」と聞いて、頭の中で全てのデータをコンピューターのように、一瞬のうちに総合して答えをはじき出し、なんとなく分かるようだ。

曖昧というのは、時には問題の本質をそらすのに使われることもあるように見受けられる。「占領軍」を「進駐軍」、「敗戦」を「終戦」と言い換えたり、一時期新聞の紙面をにぎわせたいわゆる「周辺」などの表現が、「ぼかし」の良い例だと思う。

「ぼかし」といえば、日本文学にそのような表現が随所に見られ、川端康成の『雪国』の出だしが典型的な例である。

 

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

 

どこのトンネルで、どこの信号所であるか、何も触れていない。このような漠然とした文章は日本人の好みにピッタリのようだが、ボカシは、日本文学の伝統であり、日本人の美的意識の現れでもあると聞いている。

 

中国語版『雪国』。中国でも多くの読者に親しまれている(劉徳有氏提供)

 

ところで、上に述べた曖昧、模糊、婉曲、含蓄、ないしは玉虫色などなどは、日本人固有のもので独特のものであるかというと、必ずしもそうではない。これは日本人のノウハウではなく、中国人も曖昧に話したり、婉曲にものを言ったり、外交文書の中で玉虫色の表現を使ったりすることがある。商談の中で中国人が「研究研究吧(検討してみましょう)」を連発して要領を得ず、お困りになった方もいるかと思う。

ボカシの表現は、中国の文学作品にも随所に見られる。例えば、

朝に辞す白帝、彩雲の間

千里の江陵、一日にして還る

両岸の猿声、啼いて住まざるに

軽舟已に過ぐ万重の山 

 

これは李白の詩だが、出発の時間はただ「朝に辞す」と言っているだけで、何月何日何時何分とは言っていない。「江陵」までの距離も正確に何㌔とは言わずに、ただ漠然と千里と言っているにすぎない。「万重の山」も「1、2、3、4」と数えたわけではないだろう。

文学はしょせん文学であり、幾何学の論証でもなければ、科学論文でもない。文学には、修辞が必要であり、もし日常生活や文学から曖昧、模糊、含蓄、ボカシなどを抜き去ったならば、文学は存在しなくなってしまう。

それではなぜ日本人は曖昧であり、日本語も曖昧でロジカルでないという説が世間にまかり通っているかというと、それは、一部の日本と外国の学者がこの点を特に強調し、それによって人々が錯覚を起こしているからにほかならない。

 

長江のほとりにたたずむ白帝城(新華社)

 

 実際問題として、日本人は曖昧で、日本語は非ロジカルかというと、決してそうではない。

 

 通常、物事をはっきり言わず、言外の余韻を楽しむ傾向は、日本人の美意識ともなっているようだが、どうしてこのような伝統が形成されたのだろうか。その内的原因は日本社会の特殊性にあると思われる。日本社会は長期にわたって厳しい身分制度の下に置かれ、序列意識と特殊な人間関係が社会生活を支配してきた。このため日本人は集団における個人の地位と、自分と他人との位置関係に非常に敏感で、人付き合いの中で、常に言葉の論理性よりも、相手の機嫌を損ねないように気を使い、ささいなことでお互いに不愉快な思いをしないように心掛ける。目上の人にはしかるべき敬意を払い、自分の意見を述べるときも、対立点はオブラートに包んで出し、目下の人には、意味深長な表現で自分の威厳を示すと同時に、品位を失わないように取り繕う。

 

 もちろん、こうして生まれた日本の言語習慣が、和やかな人間関係を維持するのに大きな役割を果たしていることは言うまでもない。

 

 ところで、言語習慣といえるかどうか分からないが、わざと曖昧な表現でトラブルを避け、問題の本質に触れずに迂回しようとする傾向が日本の一部の政治家にあるのが目立つ。この場合の曖昧さは単なる「虚像」に過ぎず、その背後には「ホンネ」が隠されているのではなかろうか。

 

 言うまでもなく、言葉というのは一つの民族の心に根差したもので、容易に変えることはできない。しかし、いまや言語習慣を変えざるを得ない状況が現れ始めた。

 

 まず、科学の進歩と情報量の大幅な増加、それに生活リズムのスピード化に伴って、言葉の能率が重視され、有用な情報だけをはっきりと簡潔に、分かりやすく伝えることが求められるようになり、回りくどい言い方や曖昧な表現は嫌われるようになってきた。また、国際化に伴って日本人も世界のひのき舞台で発言する機会が増えた。「腹芸」や「以心伝心」「わざと曖昧に言って、どうにでも取れるようにする」などの手法は、外交上使用されるとしても、理屈だけゴテゴテ並べ立てて、「yes」か「no」かをはっきり言わないような八方美人的なやり方は、国際舞台では、ますます通用しなくなってくるのではないだろうか。
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