がん治療で新たな連携を改革開放、条約締結40周年に考える

2018-08-29 16:28:58

=陳言

 40年前の1978年8月、筆者は新調した衣服を着て、布団を背負って、大学に入学するために北京から南京行きの列車に乗った。

 この年の8月12日、中日両国は『中日平和友好条約』に調印した。それは1000字足らずの条約で、高校を卒業したばかりの筆者には、どれほど重要な意味があるのか十分に理解できなかった。同年12月、中国が改革開放に着手し、大学のキャンパスで勉強に没頭していた筆者は、時代が変わろうとしているということをぼんやり感じてはいたが、あれから40年を経て、隔世の感を抱かせる巨大な変動が起きるとは、まるで想像できていなかった。

鍵を握る大プロジェクト

 大学では、全国各地からやってきた人々と接触した。筆者とほぼ同年齢の同期生の多くが、名前の中に「鋼」の文字があり、発音は同じでも、意志堅固を意味する「剛」ではなく、鉄鋼の「鋼」を使っていた。筆者が勉強したあらゆる古典では、決して人名に使われていることはなく、大いに奇異に感じた。筆者の本名も実は王建鋼なのだ。

 年齢を聞くまでもなく、彼らはおおむね58年から62年の大製鋼時代の生まれだった。「鉄は国家なり」は、あるいは筆者がよく知っている言い方は「以鋼為綱(鉄鋼を要とする)」で、国の鉄鋼産業の能力がその国が現代化産業を備えているか否かの具体的な証拠だったからだ。大製鋼当時、国が打ち出した具体的目標は年産1070万だった。私の父の話によると、この目標生産量を達成するため、当時、家にある鉄鍋は全て製鋼に提供したそうだ。

 中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議(3中全会)が改革開放を決定し、声明を発表した781223日の『人民日報』にはもう一つの重大ニュースも掲載されていた。「中日が宝山製鉄所(宝鋼)の建設を決定」。宝鋼の建設は、新中国成立後追求してきた鉄鋼年産1000万の夢がついに実現することを意味していた。当時の日本はすでに年産1億の鉄鋼生産能力を持っており、日本企業の力を借りて関連技術を導入し、中国はついに鉄鋼生産目標を達成し、経済成長を実現してきた。

 2017年、中国の鉄鋼生産量は8億3000万に達したが、これは1978年の宝鋼設立当時には決して想像できなかった数字だ。

 宝鋼設立に言及する場合、日本から導入された技術の意義について話すが、鉄鋼が中国経済のその後の三十数年の発展に果たした巨大な貢献の他に、中日企業間、政府間の相互信頼にもあらためて着目すべきだ。信頼関係がなければ、宝鋼の資金調達問題やその後の技術更新も全て達成できなかっただろう。

 今では、中日間で大量の技術交流が行われ、日本企業の対中投資は世界の他の国を超えようとしているが、宝鋼のようなビッグプロジェクトは出現していない。中国の医療は進歩が急がれている。例えば、がん治療に原子力技術を応用する核医学の研究開発が求められているが、日本の医療技術を導入し、がん患者の医療条件を改善すべきだという主張をあまり耳にしない。中国の各省直轄市自治区が日本の核医学治療の設備を導入すれば、再び巨大な中日協力、相互信頼の潮流が生まれるだろう。

家電が中国社会を変えた

 過去40年、日本企業の存在感を感じたのは家電だった。

 1台の洗濯機によって煩わしい洗濯から解放されたことを思い出さないときはない。80年代以前、ほとんどの中国人は毎日の仕事以外のかなりの時間を食事作りに費やし、その次は洗濯だった。80年代以後、洗濯機、冷蔵庫、テレビが雪崩を打って中国に流れ込み、大部分の中国人が食事作り、洗濯から解放され、テレビを見る時間ができ、新しい世界を発見する機会を与えられた。

 日本は継続的に中国に大量の電子商品―ポータブルテープレコーダー、ビデオ、ビデオカメラ、デジカメなど―を提供した。それまで中国では多くの場合、方言を話していたが、今では多くの場合、標準語を話すようになった。中国が地域的に分割されていた状況は言語の面で打破され、一つの巨大な市場が出現した。見た目はただの家電市場だが、実際は、家電に限らず、インスタントラーメンなどの飲食品、自動車などの高級消費財、消費財以外の各種工業製品が、全てこのプラットフォームで取引きできる。中国の家電産業が勃興し、家電の後に、各種企業が次から次へと登場し、中国社会の変化、特にビジネスシステムの確立、工業化への進歩は、家電に触発されたもので、次第に中国経済成長の特色を示す現象になった。中国の工業技術の進歩、社会の発展は、これらの日本家電が中国で普及しなければ、ほとんど想像もできなかっただろう。

相互理解を深める社会貢献

 40年前に初めて日本で出版された書籍を手にしたが、その装丁が非常に洗練されているのを見て、びっくりしたものだ。後に、日本企業から大学に日本語の辞書が寄贈され、筆者は初めて日本語辞書を持つことができた。

 今年6月11日、東京海上日動火災保険株式会社相談役の石原邦夫最高顧問、東京海上ホールディングスの広瀬伸一専務執行役員は、同社25人のボランティアと一緒に湖南省湘西の排谷美小学校に出掛け、書籍と視聴覚教育設備を寄贈した。筆者は寄贈式典を取材したが、40年近く前に日本企業から辞書を贈られた際の情景が脳裏に去来した。東京海上同社は2009年から今年まで、中国農民工(出稼ぎ農民)子弟支援活動に取り組み、書籍、視聴覚関連の設備を「七彩小屋」に寄贈し、合わせて1億5000万円を寄付して、中国の30の省(直轄市自治区)で270余りの同小屋を支援してきた。さらに保険会社の特色を生かして、防火、土石流から逃げる方法、水泳事故の防止などの防災教育も施した。小学生たちはこの日頃の学校教育と違う授業に熱心に耳を傾けた。同社の善意は中華全国青年連合会の極めて高い評価を受けた。

 1978年以後の40年、中日平和友好条約によって保証された中日の平和関係、その中で宝鋼プロジェクト、家電メーカーの対中技術移転が実施され、また東京海上日動火災保険などの日系企業が中国で社会貢献活動を行うことなどによって、中日両国の相互関係はますます強化され、相互理解も深まっている。40年来の両国関係の調整は、中国の貧困脱出のために、日本経済の長期安定の基礎を構築するために役立ち、これは中日が今後、提携して世界の新市場を開拓していく上の保証でもある。

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