中日交流の「きっかけ作り」に奮闘 北京日本文化センター

2018-07-25 10:36:40

文=成瀬明絵

 

北京日本文化センターの高橋耕一郎所長

 

「日本を中国に紹介する」。このたった一言に、どれだけの苦労や努力が隠されているのだろう。国際交流基金北京日本文化センターは中国全土での様々な活動を通じて、この大きなミッションに取り組んできた。

「言うのは簡単ですが、それをやろうと思うと困難も多い」と語るのは所長の高橋耕一郎氏。この度は北京日本文化センターの中国での歩みについて、高橋氏に話を伺った。

中日国交正常化から始まった中国との縁

北京日本文化センターは、元々は1994年に国際交流基金の北京事務所として設置され、2008年に中国の文化部と日本の外務省で文化センターの相互設置を取り決めた協定が結ばれて正式に発足した。しかし、中国との縁はそれよりもずっと前から始まっていた。

1972年、中日国交正常化を受け、中国では更なる日本語人材育成の必要性が叫ばれていた。当時外務大臣を務めていた大平正芳氏は「一人一人直接教育するのではなく、日本語教師を育成すればいいのではないか」と考え、1979年に首相として訪中した際に日本語教育の支援を約束した。そして1980年、中国教育部と国際交流基金の合弁事業という形で、現在の北京語言大学に日本語研修センター(通称「大平学校」)が設置されることとなったのだ。「大平学校」では5年の間に中国全土から集まった日本語教師約600人への再研修が行われ、非常にインパクトのある事業となり中国政府もこれを高く評価した。1985年には「大平学校」の流れを受け継ぐ形で、現在の北京外国語大学に北京日本学研究センターが設置された。

「中国では1978年に大学入試が復活しましたが、文化大革命後の大卒者はまだまだ少ない時期であり、日本語が出来て教えられるだけではない高等専門人材の養成をする必要があると考えました。そこで当時としては大変珍しかった日本語関係の修士課程として北京日本学研究センターが設置されることになったのです」。

北京日本学研究センターは現在に至るまで高等人材を次々と輩出してきたが、「いつだって更なる発展を目指している」と高橋氏は語る。

「設立当初は修士課程博士課程の修了者はほとんどいませんでしたが、今や中国では修士課程は半ば大衆化してしまっている時代です。そういった中で『更なる発展』をどのように目指してゆくかを検討している段階です。北京日本学研究センターは時代と共にこれからも前に進んでいきます」。

中日交流の「きっかけ」を作る3本の柱

北京日本文化センターの活動は主に海外における日本語教育、日本研究知的交流、文化芸術交流の3分野に分けられる。

海外における日本語教育の活動の一つとして、日本語教師研修が挙げられる。今は大学だけではなく高校でも日本語を教える学校も増えており、高校で教鞭を執っている教師陣も含め、大きなもので120人程集めた研修を全国で定期的に展開している。

「世界の日本語教育全体でみると、中国はトップクラスを走っています。中国人の先生はきちんと学習指導できるだけでなく、責任者として外国にも派遣できるほどレベルが高い。そのような状況の中で、我々は単に日本語を教えるノウハウだけではなく、語学教育という枠を超え教育学の領域にも及んだ研修を行っています。例えば日本の学界の中で新たに確立した理論や評価方法を紹介し、それらを日本語教育に応用する場合はどうなるかなどといった話を提供しています」。

日本研究知的交流では、シンポジウムなどに助成を行うなどの学術交流への支援をメインに行っている。この活動の中で、高橋氏は印象に残っている出来事について次のように語った。

「日本の古典文学について研究している中国人研究者の方が、源氏物語についての論文で賞を取ったことがありました。当時私は源氏物語という研究し尽くされた分野で新たな発見があるのだろうかと、今思うと大変失礼な見方をしていたのですが、その論文では外国人の視点で見ると今までとは全く別の解釈ができるという新しい視点を提起していました。同じものを見たとしても、違うバックボーンを持つ人の目には全く違って映ります。まずはお互い違うということを認識し、では何故違うのかを考えて歩み寄る、これを積み重ねていくことで学術レベルでの日中相互理解の発展になるのではないでしょうか。我々の交流活動が、日中関係を次の高みに押し上げる一つのきっかけになればと考えています」。

文化芸術交流は舞台、展示会、セミナーの開催などを通して日本の芸術文化を紹介する事業だ。

「我々はこれから活躍する人を応援し、次に繋がるようなきっかけを作りたいと思っています。民間ではなかなか手を出せないようなところを掘り起こし、それが一つのメインになっていけば、中国の若い人たちが日本って面白い! と感じることに繋がっていく、ひいてはそれが日本のためにもなるのではないかと考え、様々なイベントを開催しています。最近では『理由のある美しさ』を持っている、つまりただ奇抜であるだけでなく道具としても洗練されているような工業デザインが中国の若者に非常に注目されていると知り、木桶に現代的デザインを取り入れている京都の木工職人の中川周士氏を招きワークショップを開きました」。

このイベントは大盛況の内に幕を閉じ、北京で今でも中川氏の作品を取り扱っている場所があるなど、繋がりは続いている。

また日本映画の上映も、文化芸術交流の内の一つだ。高橋氏によれば、細やかな感情を表現するなどといった作品が多い傾向にある日本映画が中国で上映されヒットすることは少なかったが、一昨年あたりから日本映画の商業上映が増えてきたという。

「若い人がアニメを観るようになったことで日本の作品の勘所がわかるようになったこと、一見そっけないけれど使い勝手のいい『日本的なもの』が好まれるようになったこと、日本人役者への興味など……複合的な理由が重なり、日本映画の買い付けが増えてきたのです」

このような土壌の中、2017年5月には広東省電影行業協会と共催し広州市で「第1回日本映画広州上映ウイーク」を実施し、ここでの開催を基に広東省の深圳市、雲南省の昆明市、上海市の3都市で続けて日本映画の上映会を行った。これは国際映画祭が開催される機会のなかった都市の人々の「日本映画を観たい」という要望にも応える形となり、成功裏に幕を閉じた。

広州市での日本映画の上映会は恒例化することとなり、それに関わる広東省や香港地区の映画制作会社と日本の制作関係者が行き来し自分たちで映画を作ろうなどといった話が持ち上がるなど、その後の交流も生まれている。

「この活動が、日中の映画産業を盛り上げるきっかけになって嬉しいです。今はもはや、ただ単に国際文化交流を行うだけでいいという時代ではありません。もちろん交流そのものも大切ですが、やはりやるからには効果をどう期待するのかということも非常に重要になってきます。例えば映画産業の場合でいえば、中国の観客が映画の舞台になった場所に行くといったインバウンド効果など、様々な副次効果を生み出すことも考えていかなければならない時代です」。

北京日本文化センターの多岐に渡る事業の中で、一貫していることがある。それはその場限りの交流で終わらせるのではなく、更に発展していけるような活動を行っているということだ。

「これはいつも自らを戒めるためにも言っていることなのですが、我々はアクターではなくアクターを輝かせるための舞台を準備する黒子なのです。大事なのは輝いている人たちを諸外国との交流の中でどう生かし、日本に関心を持ってもらう人を増やして、そこから生まれる相互理解を促進するような交流を生んでいくかということ、そして更にはその交流をどのような成果に結びつけるのかです」。

中日交流の「きっかけの種」を植え続けてきた北京日本文化センター。これらの無数の種は、様々な試みの中で時には雨風に晒されながらもしっかりとした幹に育ち、これからも大きな実を結んでいくことだろう。(文写真:本誌記者成瀬明絵)

 

「北京週報日本語版」2018710

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