忘れがたき交流 私と清水正夫さん

2020-07-03 14:42:19
 尹建平=文・写真提供


今年の夏、新型コロナウイルス感染症が北京で再発した。引きこもり生活を余儀なくされた私は、これまでの生活習慣を変え、早寝早起きになった。

今朝目を覚ますと、一筋の輝く朝日が差し込んでゆらゆらと揺れ、ベッド脇のテーブルの上に置いてある赤い小さな目覚まし時計のガラスの上で踊っているかのように見えた。これは、45年前に日本を訪問した際、松山バレエ団の創設者・清水正夫さんから直々にもらった日本製の時計だ。

物を見ると人が偲ばれる。私は、この小さな目覚まし時計との45年にもわたる対話と友情を思い出し、赤くて小さな目覚まし時計の遠い古里へと思いをはせた。

初訪日で清水正夫さんと対面

ちょうど今から45年前だった。中日両国が国交を回復して間もない1975年、当時二十歳だった私は中国・北京芸術団の一員として、中日友好を深めるという重責を担って日本にやって来た。迎えてくれたのは、まさしく清水さんをはじめとする松山バレエ団だった。私たちの友情はここから幕が開けた。

当時、私たち芸術団は毎日、松山バレエ団の稽古場で踊りの練習をし、私は常に清水さんと一緒だった。ある日、清水さんから感慨深げにこう言われたことがある。「君が踊っているときの風格と顔立ちは、今ルクセンブルクに留学している息子の哲太郎とよく似ています」。だからだろうか、清水さんからとくに目をかけてもらった。

筆者(左)と清水正夫さん(197510月撮影)

北京芸術団は三つの出し物を演じた。その一つである『戦馬嘶鳴(軍馬のいななき)』は、比喩的な手法と迫力たっぷりのシーン、自由奔放なダンスで、中国人民がの勇猛果敢で剛毅な性格と奮闘の精神を生き生きと表現した。残る二つの、『ソーラン節』と『北国の春』など日本の情緒が色濃い出し物には、日本人民との深い友情が込められている。芸術は中日両国間の距離を縮め、その活動に携わる者たちの心をしっかりつないだ。

「私は最も中国を愛する日本人です」。清水さんはよくこう言っていた。早くも1955年に、清水夫婦は日本国内のさまざまなプレッシャーにも負けず、中国の歌劇『白毛女』をバレエ劇に改編し、東京での初上演を成功させた。その壮挙は、毛沢東主席や周恩来総理など当時の中国指導者に称賛され、さらに訪中公演の際には、たびたび指導者たちの接見を受けた。清水正夫さんの凛々しくて自信満々の性格や年長者としての風格、深くて先見性に富んだ考えは、若い私に強いインパクトを与えた。


バレエ劇『白毛女』で初代の主演「喜児」を演じた清水正夫さんの妻・松山樹子さん(左)と筆者

「君は中国にいる私の息子です」

清水さんの「年長者的な風格」は、中国の芸術家への深い思いやりという形でよく出ている。われわれの芸術団が大阪で公演した際、私は急性胃炎になってしまった。その時、自ら薬局まで足を運び、薬を買ってくれたのが清水さんだった。おかげで痛みは薄らぎ、私は無事に踊ることができた。この後に続いたいくつかの公演でも、清水さんは舞台の袖に立ち、胃薬を手に心配そうにこちらを見ていた。家族のような心遣いに、大きな温もりを感じた。

さらに忘れられないのは、松山バレエ団でけいこしていたときのことだった。清水さんは私をけいこ場の上にある自宅に招き、毛沢東主席や周恩来総理との記念写真を見せてくれた。そして、通訳を通して中国文化と舞踊に対する愛を語り、「ぜひ素晴らしいバレエダンサーになってほしい」と言ってくれた。しかも清水さんは私の手を取り、「君の抱く希望が大きければ大きいほど、活躍する世界も広がっていきます」と懇々と教え諭してくれた。この大先輩の言葉を心に深く刻み、その後、私の芸術追求と人生哲学で座右の銘となった。

芸術団のメンバーたちと私が日本訪問公演の任務を無事に終え、帰国する際、清水さんは通訳を介して私にこう言った。「君は中国にいる私の息子です。また会いましょう」。そう言うと清水さんはポケットから赤い小さな目覚まし時計を取り出して私に手渡し、「大事にしてくださいね」と言うや両手を広げて私を強く抱きしめた。私は感動で打ち震え、涙があふれ出てきた。男子たるもの軽々に涙を流すものではないが、この時ばかりは思い切り涙を流しても良かっただろう。忘れられない日本の旅、忘れられない清水正夫さんだった。

 

北海道の札幌公園で記念写真に収まる清水さんと筆者(197511月)

――記憶から現実に戻った私は、目の前の赤い小さな目覚まし時計を見つめている。45年にわたって鳴り続けてきた「チクタク」音は、この誠実な友情を絶えず語り続けてきたように感じ、心が温かくなった。感染症に見舞われたこの夏の朝、時計のガラスにきらめいた赤い光に、私は災厄を乗り越える希望と、新たな時代のあふれる人間性の輝きを見た。


 

【プロフィール】


尹建平

ダンサーや作詞作曲家、音楽家、監督として多分野で活躍する著名な芸術家。1955年、山東省青島市出身。幼少時から音楽を好む。11歳から二胡を学び、著名な音楽家の何昌林氏に師事。1970年、人民解放軍総政治部歌舞団の試験に合格し入団。中国舞踏の大家・賈作光氏と劉英氏のもとで研さんを積む。現在、中国国際文化交流センター理事、中国国際文化交流基金会アートディレクターを兼務。また中国舞踏家協会の終身会員。

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