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良渚(上) 玉器文化の宝庫

 

【良渚先祖の玉の掟】

 

玉璧。歴史の流れに従って、漸次変化している(左から右へ)

玉琮。時代の移り変わりにともなって円筒形から外方内円に器の形が変化する。図案も繁雑から簡潔に変わる

人々が不思議に思うのは、反山の11の墳墓の中の玉器の並べ方で、位置がほぼ同じということである。頭蓋骨の上の方は玉冠の飾り、胸腹部には玉琮、体の片側に玉鉞、玉璧の大多数は大腿部と足の辺りに置かれている。このような並べ方はだいぶ前の良渚文化に属する江蘇省武進寺墩遺跡や、1987年良渚瑤山祭壇など跡で発掘された貴族の大墳墓から出土した形と、ひじょうによく似ている。

これについて劉さんは、このような一致は、この墓の主人が生前、これらの玉器をある種の儀式と決まりに従って使っていたことを示していると考える。この良渚博物院で、もっと具体的に解説を聞いた。

反山、瑤山、匯観山墓地に葬られたのは、当時の権力者である。彼らは生前、頭に2、3本の羽毛を挿した三叉形の器で、権力と武力を表した。彼らは左手に軍権掌握を象徴する玉鉞を握り、人民に号令する。大腿部に置いてある玉璧は、巫師を兼ねる貴族が天を祭るもので、胸腹部に置かれた玉琮は、地を祭る礼器である。

しかし、良渚玉器は必ずしも全く変わらなかったわけではない。歴史の流れに従って漸次変わっていった。玉璧は初め玉環(輪の形をした玉)に似て、環の周りは比較的細く、中心の丸い穴は非常に大きかった。その後、璧が太くなるにつれ、円の穴は小さくなる。晩期には玉璧はさらに大きく厚くなって丸い穴はいっそう小さくなった。つまり良渚の先祖の玉を多く持っているほど貴いという観念を反映している。

同様に玉琮も初めは円筒状で、やがて外側が四角で中が円形に変わる。丸は天を、四角は地を象徴した。同時に玉琮は小から大へ、低きから高きへとだんだんと、玉を多く用いることによって、地から天により近づくことができるとされた。

【神の紋章 至上の神霊】

「玉鉞王」と称される玉鉞の上に、精緻な神の紋章図案が彫られているのがはっきりと見える(反山12号墓出土)(杭州良渚遺跡管理局提供)

千点に及ぶ良渚玉器の中で、もっとも際立った特徴は琮や鉞、冠、三叉形あるいは錐形の礼器の表面に、一つあるいはいくつかの神秘な神の紋章のような模様が彫刻されていることである。たとえば、反山の12号墓から出土した「玉琮王」には、浮き彫りや陰刻の技法を合わせ用いた半人半獣の図案が施されている。上の部分は神に見え、逆さまになっている台形の顔や丸い目、団子鼻、平たい口、整然と並んでいる上下の歯、頭には「風形帽」を被って、その帽子の上に放射状の大きな羽がある。神の平らに伸ばした両腕と10本の指は、全体に雷紋が施されている獣面を抱え、その獣面には楕円形の目や「工」字形の鼻、平たい円形の口は外に歯をむき出している。神の両足は内側に曲がり、模様の下に縮まっており、足の指は鳥の爪のように、曲がって下向きに伸びている。

この模様は、最初のうちは中原地区でよく見られる饕餮(伝説中の何でも食べる怪獣)紋、獣面紋だと思われていたが、後に劉斌らの研究が重なるにつれ、これは太湖流域の各良渚文化遺跡で広範に見られるもので、神の目や鼻、冠、器具の形状などは、すべて統一的な規範があることが分かった。昔の部族のトーテムではなく、ましてや動物の形象ではなく、千年以上にわたって磨き上げ、融合して、すでに根深くこの文化地区の先祖の脳裏に焼き付けてきた神霊のイメージである。

良渚文化の発展にともなって、神の紋章の模様は写実から抽象へ、複雑から簡明へと変わっていった。末期の神の紋章の図案は、神の羽冠、羽毛で飾った帽子、鳥の足のような足指、そして獣面の牙、雷紋を省略し、いくつかの同心円と一つの円で神や獣面の目を表し、角の丸い長方形を獣の口としている。これによって、神の紋章はいっそう象徴的な意味を持ち、さらに人格化し、より規範化して、いっそう神聖な力を持つようになった。そのため、玉器に神の紋章が刻まれていれば、最高の権力、すなわち王権、軍権を握り、かつ神の化身となって、政教合一の代表となることができるのである。

 

 

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