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馬王堆(上) 生けるがごとく出土 前漢の貴婦人の謎

丘桓興=文 魯忠民=写真 

 1972から74年にかけて、湖南省長沙市の馬王堆で発掘された三基の前漢(紀元前206~紀元25年)の古墓から、完全に保存された女性の遺体(ミイラ)が発見された。さらに出土した3000点以上の珍しい文物の中には、精巧な漆器、華麗な絹、薄絹に描かれた神秘的な帛画、実際に測量して作られた地図、地下の図書館とも言われる大量の帛書(薄絹に書かれた文書)があった。これらは2100年前の中国の社会経済や科学技術、宗教意識、風俗習慣、貴族の生活を再現することができる貴重なものである。

1号墓出土の棺。黒地に彩色された絵が描かれている

世界を驚かせた発掘

馬王堆の漢代古墓遺跡は、長沙市内から東へ5キロ離れた郊外にある。1972年に発掘された一号墓と、その後発掘された二号墓は埋め戻され、いまは三号墓しか見ることができない。三号墓は整理・補強され、その上に大きな屋根をつくって観光客に開放されている。

「文化大革命」が始まる前に、世界的に有名な考古学者の夏鼐氏が馬王堆を視察し、ここには必ず重要な墓葬があると断定した。このため1956年、湖南省政府は、馬王堆を重点文化財保護単位に指定した。  しかし「文化大革命」が始まり、いたるところで地下防空壕が掘られた。馬王堆の地下にも1971年12月、衛生部隊によって病院が建設された。  ある日、打ち込んだ鏨を引き抜くと、そこから急に冷たい空気が噴き出した。マッチで火をつけると、青い炎をあげて燃え続けた。  

湖南省博物館の指導者や研究員の熊伝薪さんらが現場に駆けつけると、青い火は3日三晩燃え続けてやっと消えた。こうした墓は「火坑墓(オンドル墓)」と言われるが、実は古墓の中の有機物が分解してできたメタンガスが燃えたのである。このため研究者たちは、墓の中の文物の保存状態は良いと推測し、喜んだ。  上級機関の許可を受け、1972年1月16日から、一号墓の発掘が始まった。墓を覆っている封土を取り除くと、竪穴の四角い「方穴墓」が姿を現した。墓の入り口から下へ12.2メートル掘り、さらに30~130センチの白い粘土層と40~50センチの木炭層を掘り進むと、椁室(棺をおさめた部屋)とそれを囲む四つ部屋が現れた。それは椁室を中心に井の字型をしていた。  その蓋を開けると、椁室の周囲にある四つの部屋の中は、各種の貴重な文物でいっぱいだった。また椁室内に置かれた四重の棺も完全に保存されていて、みな大いに喜んだ。

 1973年11月から、二号墓と三号墓の発掘が始まった。二号墓と一号墓は東西に並列しており、別々に埋葬された夫婦の墓であることがわかった。さらに墓の中から見つかった印鑑、封泥(封緘するための粘土の塊)、木簡などから、二号墓の墓主は、前漢初期の長沙国の宰相である軑侯の利蒼(在職紀元前193~同186年)であることがわかった。また一号墓の墓主は軑侯の夫人の「辛追」という名の女性であることも判明した。

軑侯夫人の「辛追」の遺体 軑侯夫人「辛追」の復元された像

 三号墓は一号墓の南にあり、これは利蒼の息子の利豨の墓である。この二号墓と三号墓は、周囲に木炭と白い粘土がいっぱい詰められ、その上を盛り土で密封してあった。しかし、二号墓と三号墓は先に造られ、その規模は比較的小さかった。二号墓の中に置かれた棺は二重しかなく、白い粘土層も薄く、よく密封されていなかった。そのうえ何回も盗掘されたので、出土した文物はかなり少ない。 しかし、二号墓で発見された三個の印鑑は、「利蒼」「軑侯之印」「長沙丞相」と刻まれており、それぞれ利蒼の私印、爵印、官印である。こうした発見はきわめて珍しい。

 また二号墓の上部は円筒形をしており、墓の底部から3メートル余りのところは四角形になっている。これは、古代の人々が持っていた「天は円く、地は四角い」という「天円地方」の宇宙観が墓葬に反映したものという研究もある。

 

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