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良渚(下)五千年前の国都

 

誰が良渚古国の君主だったのか

良渚博物院展示室内の良渚古城の模型

良渚博物館で、良渚時期の社会生産力を見れば、相当高いレベルまで発展していたことがわかる。農作物には稲などがあり、農機具はすでに犂を使って耕し、豚、牛、犬などの家畜も飼っていた。手工業には陶器、絹織物、漆器。玉器に至ってはかなりのものである。陶器には文字の前身と見られる記号が発見された。良渚の周辺には、幾つかの人家が集まって住んでいる村落があった。

生産が発展するにつれ、社会的分業が現れた。男は田畑を耕し、女は桑を摘み、蚕を飼い、機を織った。他にも玉工房で玉器を彫ったり刻んだり、陶工房で陶器を作る手芸職人もおり、家を建てる人、木靴を作る大工もいた。

しかしながら、生産力の発展と剰余品の増加も、社会分化と等級差を作った。専門家たちは、各種の墳墓の形と構造、規模、埋葬具の配置と副葬品の種類・数量などの資料を分析して、当時の社会はすでに3つの等級に分かれていたと見ている。

第1等級は、良渚の反山、瑤山、匯観山墓地群を代表とする「国」の統率者。彼らの古墳は大型の土台と祭壇、墓穴は大きくて深い、一重または二重の棺があり、副葬品は玉の礼器が主で、主に琮、鉞、璧、冠状飾り、三叉形の器などである。

第2等級は、良渚文化地域の各地に分布している。墓地は主に小規模の祭祀土台の上にあり、葬具は比較的大きく、琮、鉞、璧、冠状飾りなどの玉礼器が副葬品であるが、種類は揃わず数も少ない。同時に、石犂や石鎌や耕作機具などの生産工具も副葬品にある。墓の主が村落の首領や祈祷師で、同時に生産にも携わっていたことがわかる。

第3等級は、平民である。いろんなところの普通の遺跡や集中墓地の中の小さな墓の所々に見られる。墓穴は浅くて小さい。一部の墓には木棺や副葬品があるが、副葬品は僅か日用品の陶器と石钺、石鎌などの生産工具だけだ。この他、全く副葬品もない、さらに等級の低い墓もある。

では、莫角山の宮殿で命令を下せた支配者はだれだろう?

莫角山の西北の反山墓地は「反山王陵」と呼ばれている。この11座の墓主はみな「国」の統率者で、その副葬品は驚くほど多い。劉さんは古墳の整理作業の情景を思い出して言った。「墓穴の中は全部が器物と大事な遺跡だったため、足の踏み場もなかった」。彼らは上から吊るした横板にしゃがみ込んで整理作業をした。中でも12号墓は古墳群の真ん中にあるが、700以上の玉の礼器が出土した。とくに、重さ6.5キロに達する「玉琮王」と両面に半人半獣の神の紋章が施されている「玉鉞王」が出土したことは、まだ名前も分かっていないこの墓の主人が生前、王権と軍権を支配しただけではなく、一般の民衆が崇めていた神権をも支配していたことを示している。つまり、この政教合一の主宰者こそが、おそらく良渚古国の君主だったかも知れない。同時に、この君権神授の思想が生まれた後、中国の封建社会の礼制に大きな影響を及ぼし、何千年にもわたる皇権をつなぎとめたと言える。

高台に建てられている匯観山祭壇遺跡

 

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