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河姆渡(上)7000年前の稲作文化

 

丘桓興=文 劉世昭=写真

1973年、浙江省余姚市の河姆渡文化遺跡の積み重なった四つの文化層から、7000年前の大量の稲籾と生産道具、生活用品、装飾工芸品、建築部材など6700点あまりが発見された。国内外の考古学界や農学界は、こぞって驚き賛嘆し、河姆渡こそ水稲の起源であると言った。

河姆渡、燦爛たる長江文明

良渚を離れ、車で東に100キロ行き、余姚の河姆渡遺跡を取材する。沿道のいたるところに見える別荘風の農家の建物、金色に輝く稲田と緑の野菜畑、すべてが今日の江南水郷農村の豊かさを物語っていた。

河姆渡遺跡博物館に着く。「民以食為天(民は食を以って天と為す)」とは人民にとってもっとも大切なものは食である。稲作農民の子である私は、河姆渡の人たちが手足を使い、知恵と苦労でこの土地に稲を栽培したことに尊敬してやまず、神を参拝するかのような気持ちになった。

案内してくれた姚曉強副館長は遺跡の発見と展示品を詳しく紹介した。1973年6月、地元の農民たちが排水工事を行っていた時、偶然、7000年前の文物を掘り出した。当地の責任者が政府に報告した後、浙江省文物管理委員会と浙江省博物館が人を派遣して試みに発掘したところ、百点余りの骨器と陶器、少量の石器と木器百点余りが出土した。

国家文物局の批准を受けて浙江省は、1973年と1977年の2度、考古隊を編成して大規模な発掘作業を行った。著名な考古学者蘇秉琦教授と厳文明教授の指導の下、面積2800平方メートル、厚さ4メートルの積み重なった4つの文化層から、7000年前から5300年前までの文物6700点余りと、たくさんの木の欄干などの遺跡と大面積の籾の堆積層が出土した。

河姆渡遺跡の発掘によって、7000年前に河姆渡の人たちが稲の栽培を行い、石斧や骨製鑿などの工具を使って木造の家を建て、井戸を掘り、村落を成していたことが明らかになった。櫂8本が出土したことによって、当時すでに水運の便があったことが分かった。出土した文物から河姆渡の人たちが製陶や紡織、塗漆などの技術を知り、また骨、木、玉、石を使って工芸品を作り始め、暮らしを飾ったり、彼らの信仰を表現したりしていたことが分かる。

絢爛たる長江文明を見せつける河姆渡遺跡は、国内外から大いに注目された。1982年、国務院は河姆渡遺跡を全国重点文物保護単位に指定した。今なお、毎年、世界各地から数多くの考古学者や観光客が訪れている。

骨耜で稲を植える

7000年前の籾米

河姆渡遺跡のもっとも重要な発見は、一番底にある第4文化層から、大量の稲の籾、籾殻、茎、葉が出土したことである。これらは互いに混じりあって堆積し、厚さが10から20センチ、30から40センチ、最も厚いところは1メートルもある。ある人の換算によると、稲の総量は約120トンに達する。

驚いたことに、豊富な地下水のおかげで空気が遮断され、7000年前の稲が見事に保存された。かなりの籾が出土時に黄金色をしていた。中には籾殻の縦脈や毛までがはっきりとしていて、稲穂とワラ、葉っぱがついたものもあり、出土したばかりの色は鮮やかな黄色で、外形も完全であった。

このように規模が大きく、保存のよい稲があったということは、当時相当広大な稲田があったと思われる。1994と1995年に、浙江省文物考古研究所が日本の宮崎大学とともに試掘孔法で調査したところ、わずかだが遺跡の東北側に6ヘクタールの稲田が確かにあったことが分かった。

では、河姆渡の人たちはどのようにして稲を栽培していたのだろうか?

史籍の記載によれば、古人はかつて「木を切りて耜を為す」「耜をけずって耕す」と。しかもここで大量の骨耜と少量の木耜が発見されたことによって、「耜で耕す」原始農業の存在が裏付けられた。博物館に展示されている骨耜は鹿や水牛などの肩胛骨に二つの穴をあけ、藤の蔓を使ってY型あるいはT型の木の柄に縛り付けたものである。骨耜は石耜や木耜に比べると、作るのが簡単である上、石耜の鋭利さ、木耜の軽さも備え、しかも長もちする。出土した骨耜のどれもが磨耗が激しいことからも推察できる。

小型の歯をついた骨鎌、木鎌、石鎌から見ると、当時、刈り取る時、稲穂だけを刈り取って茎はそのまま田に残したことが分かる。穂が簡単に刈り取れない時は、茎や葉がついたままの稲穂や、時には根ごと引き抜いて、われわれに証拠を残してくれた。

藤のひもがついている骨製の耜(田螺山遺跡出土)

各種の木製の耜

(田螺山遺跡出土)

骨製の鎌(河姆渡遺跡出土)

興味深いのは河姆渡は新石器時代に属しているのだが、石器が少なく代わりに大量の骨器が出土することである。5000点以上の骨器、陶器、木器、石器の内、骨器が3000点以上に達する。その内、骨耜の農具が200点、狩猟道具の矢じりが2000点以上、他は建築、紡績、飲食、装飾などの骨器である。これは当時この地の気候が温暖で、雨も多く、林にはいろんな野獣が棲息し、沼沢の葦原にはいろんな鳥が飛んできて、河姆渡の人たちに豊富な狩猟資源をもたらし、おかげで骨器の材料にもこと欠かなかったからである。しかも骨器の制作が簡単で、丈夫で長もちするので尚更である。

水稲には主にインディカ米とジャポニカ米の2種類がある。河姆渡で出土した稲は粒の形と色、殻の毛、葉の形からみると、インディカ米に属する。しかし、これが野生の稲を栽培したのか、それともよそから伝わったのか、いまのところ結論を得ていない。というのはその後、考古学者が浙江省の浦江上山遺跡から1万年前の稲を発見したためである。さらに長江を遡った江西省の万年仙人洞遺跡、湖南省道県の玉蟾岩遺跡などでも1万年以上前の稲が発見された。

中国の農業文化地帯でいえば、長江流域は稲作の文化地帯である。乾燥地帯の北方の人たちは、8、9千年前には干ばつに強いアワを植え、アワの文化と絢爛たる黄河文化を創った。5000年前に中央アジアから小麦が伝わって後、北方の農民は次第にアワに代わって小麦を植えるようになった。ここに中国北方の人々は面を食べ、南方は米を食べ、ほかに500年前に南米から伝来したトウモロコシを加えた食文化になった。

臼と杵と陶釜

干した籾を脱穀すれば、あとはご飯を煮るだけ。河姆渡人はどうのように籾を加工したのだろうか。

脱穀するには2つの方法がある、磨りと搗き。河姆渡遺跡から石の磨り臼と磨り玉が発見されたため、河姆渡人が磨る方法で籾を加工していたことが分かった。古人の籾を搗く段取りは、土に臼を掘り、突き固めてから籾を入れ、杵で搗いて米にした。その後、木臼と石臼が現れた。遺跡からは木臼と石臼は発見されていないが、1本の長さ92センチ、下の端に直径8.3センチの槌がついている木の杵が出土した。これによって河姆渡人が杵で搗いて脱穀したことが分かる。

では、河姆渡人はどうのようにして米を煮てご飯にしたのか。

厚さ4メートルにもなる文化層の、一番下の第4層から一番上の第1層まで、どの層からも陶器が出土した。陶片は何十万個にも達し、完成品と復元品も千点以上になる。博物館ホールの4階までの長い棚にさまざまな主な陶器が展示されている。煮炊きをする釜、飲食用の皿、盆、鉢、蓋と足がついた豆などの古代食器、水用の器や物を盛る缶…。

河姆渡遺跡で出土した釜が一番多い。この内一番下の層から発見された7千年前の「夾炭黒陶」釜はもっとも特色がある。専門家の実験によると、これは籾殻と稲、葦の茎と葉を燃やして炭化した後、陶土に混ぜ合わせ、再び真空状態で焼いたものだと分かった。この製陶方法は白地の乾燥と焼成時の収縮による陶器のひび割れを防ぐだけでなく、陶釜の耐熱・急変の性能を高め、なかなか科学的である。また、河姆渡の先住民は製陶時によく稲の葉や籾を飾りに使う。例えば1973年に出土した陶釜は、18角形の口あたりに、籾の図案が連なって刻されており、非常に精美である。

姚副館長はわざわざ私を案内して壊れた陶釜を見せた。「壊れた釜と見くびってはいけない。この炊飯釜には7千年前のおこげがまだ貼り付いているんだよ」と言った。身をかがめてよく見ると、確かに鍋底に貼りついているあの真っ黒のおこげだとわかる。

おそらく粥やご飯の焼け焦げの教訓を汲み取ったことであろう。その後、陶の甑が現れた。それより少し後の第2文化層から5、6千年前の陶の甑が発見された。水蒸気の高温を使って、たくさんの蒸気穴を開けた陶製の甑で米を蒸す。薪が節約できるし、焦げる心配もない。

ぜひともお見せしたいのは、甑、釜、竈を組み合わせた陶製システムキッチンである。陶製の竈は大きなヘルメットのようで、底の周りに足がついているので安定している。竈の口は薪をくべやすいように非常に大きい。竈の内壁の左右と後ろ側に支えがあり釜が安定するようにしている。竈の外側に持ち運び用のとってが2つついている。上に陶の釜と甑が置いてある。6、7千年前にこんな便利で科学的なシステムキッチンが存在していたとは、なんて素晴らしいことであろう。

「双鳥朝陽」と鳥崇拝

6、7千年前の水稲栽培は、さまざまな自然災害と困難に直面し、人は大自然と豊作の関係について思いを巡らし、原始崇拝の信仰に向かう。

象牙に彫られた「双鳥朝陽」(河姆渡遺跡出土)

「万物の生長は太陽の恵み」、世界の多くの民族の太陽崇拝と同様に、稲作河姆渡人は太陽崇拝・豊作祈念という原始信仰を陶器や工芸品に刻んでいる。

驚きいぶかしく思うのは、河姆渡で出土した陶器や工芸品上の紋様で一番多いのが鳥の図案である。これは河姆渡人の鳥崇拝を表している。研究者によれば鳥崇拝と稲作は関係があるという。ある人が言うには河姆渡人の稲作は鳥が野生の稲をついばむのを見て啓発されたという。毎年、渡り鳥が春の到来を告げ、耕作の時を告げ、種まきを始めるからとも、また、鳥が害虫を食べ、稲を保護するからとも言われる。

この後河姆渡人の鳥崇拝は呉越地方に広がり、東夷を「鳥夷」、越人を「鳥種」と呼ぶようになった。春秋時代の越王の勾践を「首が長く、口が鳥のくちばしのよう」と形容し、越人の言葉を「鳥言葉」という。勾践自身も自分の成功が「丹鳥(鳳凰の別称)」のおかげだと思い、「望鳥台」を建てた。今も呉越地方に鳥崇拝のいろんな習俗が数え切れないぐらいある。

河姆渡遺跡から出土した12点の象牙彫刻の中で、「双鳥朝陽」と名付けられたものがもっとも傑出している。図案の真ん中に5つの大きさの違う同心円で構成された太陽紋があり、周りは燃え上がる火炎紋、太陽の光芒を象徴している。左右に対称になった鳥二羽が、羽を広げて飛び立ちそうである。縁に羽状の紋様が刻まれている。この図案は、太陽には三本足のカラスがいるといった伝説からの「金烏負日」という古代思想を表現している。古人は太陽の日の出、日没は二羽のカラスが運ぶのだと考えた。この彫刻は奥深い意味をもち、彫刻は精密で細かく、線が流暢で、国宝級の素晴らしい文物であり、今や河姆渡文化のシンボルとなっている。

 

人民中国インターネット版 2010年4月27日

 

 

 

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