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河南省淮陽県の民芸品 多産を願う原始信仰 泥泥狗

 

魯忠民=文・写真

淮陽県は河南省の南部に位置し、古代には陳州と呼ばれ、古代中国神話によれば、伏羲が都を造営し、そして埋葬された地とされる。県北部には、人祖廟と呼ばれる太昊陵があり、毎年旧暦の2月2日から3月3日の間、盛大な太昊陵廟会(「廟会」は日本の縁日に相当)が催され、周辺から人々が続々と集まり、一日平均の参拝客は万を超えるという盛況ぶりである。

完成間際の泥泥狗

伏羲は古代中国神話における中華民族の始祖であり、「三皇」の筆頭として広く知られている。伝説によれば、伏羲は聖徳を備え、日月のように公明正大で、太昊とも呼ばれ、人々に網の編み方や漁猟牧畜を教え、最初に八卦を画き、8種類の簡単で深い寓意を持つ記号で森羅万象を網羅表現し、人頭蛇身の伏羲は、妹の女媧と結婚し、子を生み育て、人類の始祖になったと言い伝えられている。また、その他の伝説では、伏羲は古代東夷部族の優秀な首領で、黄帝、炎帝よりも早く、龍のトーテム崇拝を創始したとも言われている。

太昊陵廟会と泥泥狗

自分の作品を紹介する泥泥狗職人の任国和さん
廟会では、俗に「泥泥狗」と呼ばれる玩具がたくさん売り出される。各地から集まる参拝客や観光客は、この玩具をあれこれ吟味して買い、道すがらあるいは故郷で出会う子どもたちに贈る。

泥泥狗は「陵狗」ともいい、現地の人々によれば、伏羲と女媧の陵墓と宗廟を守護する神犬と言われ、これを親友に贈ると、災難や病気が取り除ける非常に神聖な存在で、人々は、廟会から持ち帰った泥泥狗が陵墓の前で焚いた線香の灰とそれで焼き上げた卵と同じように、吉事と幸福をもたらし、病と災いを払い除けると信じている。

泥泥狗は、黄土をこねて作ったもので、下地はすべて黒、その上に赤、黄、白、緑、桃の五色でシンプルで明るい模様が描かれる。二つの穴が胴体部を貫き、吹くと音がする。泥泥狗は、その大きさによって、「大花貨」「中花貨」「小泥餅」の三種類に分けられ、「大花貨」は高さ10~17センチ、「中花貨」は高さ6~10センチ、「小泥餅」は通常2センチ以下のものを指す。

泥泥狗の造形は奇妙な上に種類も多く、そのほとんどが名状しがたい珍鳥や怪獣ばかりで、中でも泥猿の種類は最も豊富で、「人祖猿」「人面猿」「抱桃猿」や猫と猿が一体化した「猫拉猿」などがある。獣には「麦藁帽子虎」「一角獣」「多角獣」「無眼獣」や2種類の獣が一体化した「相馱獣」などがあれば、鳥には「キジバト」「親子燕」や猿と燕が一体化した「猿馱燕」「九頭燕」「小燕」などがあり、水棲動物では、「八叉亀」「神亀」「四脚蛇」「小泥亀」などがある。その基本的な形は昔から伝えられてきたものだが、現代の職人の手によって新たに数多くの種類が作られ、その種類は約千以上もある。

伝説によれば、伏羲の時代、ある日突然天が堕ち、地が割け、大洪水が起きた。幸運にも神亀の助けがあり、世界中でただ伏羲と女媧の兄妹が生き残った。人類の繁栄のために、二人は天意に従い結婚したが、女媧は妊娠・出産・育児の過程に必要な時間的長さを嫌い、黄土を人型にこね、それを乾かして本当の人を生み出した。女媧は休むことなく泥人形を作り、庭は泥人形で溢れかえった。そこに突然大雨が降り出し、伏羲と女媧は慌てて泥人形たちを部屋に片付けたが、慌てる余り、その途中で泥人形の中には腕や脚が折れてしまったものが出て、それらが後に身体障害者となった。また泥人形は黄土で作られたので、中国人の肌は黄色いのだという。そして後世の人々は女媧の真似をして、泥泥狗を作るようになり、それを人間が神と交流する一種の媒介にした。当初、これらの泥泥狗は祖先を祀る供物で、次第に廟会に参詣できなかった人々に吉事と幸福をもたらすという縁起の良い物となった。

敬虔な参拝客

 

人祖猿

造形の変化に富む人祖猿は、胸の中央に赤色で棗の種が描かれ、胴体にも幾重の縦向きの弧線が描かれている。こうした模様は亀、蛙、鳥の胴体にも描かれていて、専門家の解説によれば、これらの紋様は女性生殖器の象徴で、上古時代の生殖崇拝観念の伝承と遺物であるという。伏羲と女媧は民族の始祖であり、それゆえごく自然に生育の神となり、そして男女の性交の隠喩となり、早く子宝に恵まれるようにとの祈りとなり、廟会の最大の宗旨となった。ここの廟会の人ごみの中では、色鮮やかな絹の服をまとい、手に旗竿を持った少年と母親の姿がよく見掛けられる。これは子宝の願いが叶った母親は子供が12歳になった時に太昊陵に参詣し、焼香しなければならないとの決まりがあるためである。旗竿の竿は男性を象徴し、上の升形の部分は女性の陰部を象徴している。本殿左側の石段脇には「子孫洞」があり、これも女性陰部を象徴していて、多くの女性がこれをなでるのは、こうすることで子宝に恵まれるとの言い伝えがあるからである。

泥泥狗の中には、瓢箪型の「泥塤」と呼ばれる中国古代の礼楽器があり、その大きさはさまざまで、2穴、3穴、5穴、7穴などの種類があり、いずれも吹くと音がする。これらの泥塤はすべて焼いて作られていて、低温陶磁器製楽器の一種で、現地では「梨羅」と呼ばれ、こうした塤は湖北省の曾侯乙墓および先秦の墓からよく発掘され、古代の祭礼、慶典などの行事における楽曲の演奏には欠かせない存在だった。その後、塤は次第に失伝してしまったが、淮陽の泥玩具の世界ではしぶとく生き残っていて、その事実にはただ驚かされるばかりである。

素朴で奇妙な造形の泥泥狗という玩具。何気ない存在に見えるが、その中には遥か伏羲と女媧の古い神話時代から中国古代の文化情報を豊かに伝え、その形も色も数千年の時を経ても変わらず、専門家からは「真のトーテム」との高い評価を受けている。

泥泥狗の職人

泥泥狗を作る職人のほとんどは淮陽県付近の金荘、武荘などの十数の村に住んでいる。みな農民で、かつては農閑期に泥泥狗を作っていた。それぞれの村にそれぞれに得意な種類の泥泥狗があり、名人技をもった職人がいる。

金荘に住んでいる任国和さんは今年58歳で、文芸兵として8年間の軍隊生活を経験し、退役した後、村の役人となり、20年間働いた。5、6歳の時から父親について泥泥狗の作り方を習った任さんは大らかな性格の持ち主で、泥泥狗の話になると、言葉がつきない。「素朴で、抽象的で、戯画的で、ロマンがある」と、任さんは泥泥狗の魅力について語る。

1966年に文化大革命が始まると、廟会はなくなり、泥泥狗もこの地から姿を消したが、文革の終了とともに、1977年に廟会は再興され、淮陽県の村々でも再び泥泥狗を作り始めた。

ところで、この数年の泥泥狗の需要状況は大きく変わり始めている。昔は廟会で売るために作り、買い手は参拝客だった。しかし今は廟会だけではなく、展覧会や専門家たちの紹介を通じて、国家級無形文化遺産リストに登録され、「堂々たる地位」を確保した。職人や彼らの作品もしばしば展覧会に参加し、さまざまな賞に輝いた。かつての単なる玩具が、今は装飾品となり、収集家向けの工芸品や贈答品として人々に愛されている。伝統的な造形以外にも、任さんは毎年五つの新しい造形を作り出し、職人としての創造性を泥泥狗に注ぎ込み続けている。「息子は今年37歳で、小学校のころから私について習い、今は私以上の腕前を持っています。作品が日本やフランスの展覧会に出品されたこともありますよ」と任さんは語る。

任さんの工房は少々おんぼろに見えるが、庭には酒の醸造所があり、この施設は、任さんが村の役人を務めていた時、村民の生活を改善するために設立したものである。その隣には息子が新築した3階建ての建物があり、一階は泥泥狗専用工房となっていて、息子と孫のほか、数人を雇って泥泥狗を作っている。地面には玩具を収納するダンボールが積まれ、全国各地から殺到する注文に追い付けず、猫の手も借りたいほど忙しい毎日を送っている。任さんは村の役人こそすでに定年退職したが、今でも、妻の陳鳳蘭さんに粘土捏ねを手伝ってもらったりしながら、自分で生地を作り、息子や孫たちといっしょに泥泥狗作りに勤しんでいる。任さんは心から泥泥狗を愛し、泥泥狗作りは任さんの人生の楽しみでもある。

 

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