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馬王堆(下): 古代思想を知る手がかり帛画と帛書

 

古代の養生と医術

1973年、三号墓が発掘されたとき、東側の部屋にあった漆の木箱から、大量の帛書(絹に書かれた文書)が出土した。しかし、長い間、水に漬かっていたため、帛書はくっついてしまっていた。

故宮博物院の専門家が一冬かかってやっと帛書をはがし、修理し、表装した。このほど全国各地から30人以上の専門家が北京に集まり、帛書に対する考証・解釈と研究が行われた。  三号墓の発掘と帛書の整理・研究に参加した湖南省博物館の元副館長の傅挙有氏は「帛書の内容は豊かであり、哲学、歴史、文学、軍事、宗教、芸術もあれば、天文、暦法、気象、建築、医薬、牧畜などもあり、全部で12万字以上あって、地下図書館と称してもよいほどだ」と述べている。

 馬王堆から出土した医学書は十四種類あり、帛書全体の三分の一を占める。その中の『五十二病方』は、全部で一万字以上あり、52のテーマに分かれ、テーマごとに疾病の発病の原因、症状や治療の処方や治療法が詳しく述べられている。それには少なくとも一、二の方法、多ければ20から30の方法があり、医術は283の方法、薬は254種類あって、その範囲は外科、内科、産婦人科、小児科、耳鼻咽喉科などにわたる。薬剤の形には、丸薬、散薬、酒、軟膏などがある。

研究者の考証によると、『五十二病方』がつくられた年代は、古代の医学書である『黄帝内経』よりも古いという。さらにこの書の中に書かれた療法は、灸法、石針法、按摩法、熨法(薬物を熱し、患部をなで押さえる方法)、薬浴法、煙燻・蒸気燻法などがある。専門家は、この書はおそらく、佚書の『黄帝外経』ではないかと考えている。

3号墓出土の『駐軍図』

『五星占』3号墓出土、長さ221.3センチ、幅49.2センチ。これは、当時の天文学が高い水準にあったことを示している

針灸は、伝統的な中国医学の療法の一つで、簡便で治療効果がすこぶる高い。馬王堆帛書の中の『足臂十一脈灸経』『陰陽十一脈灸経』は、いままででもっとも古い経脈学、灸療学の専門書であると専門家は考証している。

このほか、『養生方』『雑禁方』『胎産書』『十問』『合陰陽』『天下至道談』などはいずれも昔の養生と医術の著作である。その主な内容は、老衰の防止と治療、体力の増進、滋養強壮、房中補益などで、その多くの医学療法は現代の養生や老人病の防止と治療にとって参考にする価値があるものだ。

中国の古代人は古くから呼吸による運気法、新陳代謝、各種の身体運動に助けを借りて身体を強くしてきた。これを総称して「導引」という。馬王堆の帛書の中にも、案の定、『導引図』と名づけられた一幅の彩色画がある。

この絵の長さは約1メートル、高さ50センチ。絵の中には四列に並んだ44人の男女の人物がいて、熊や猿、虎、鳥などの姿や動作を真似ている者がいたり、棍棒や砂袋、盆や皿などを使って運動をしたりしている者もいる。それぞれの人物の脇に、動作の名称や効用が書かれている。原図が折られたり畳まれたりして欠損しているため、現在は31の動作の名称しか残っていない。

世界最古の実測地形図

帛書の中に、三幅の彩色地図がある。それぞれ『前漢初期長沙国南部地形図』『駐軍図』『城邑図』と名づけられた。

『地形図』は一辺の長さが96センチの正方形をしており、上が南、下が北を示していて、今日の地図とは正反対となっている。図の中に描かれている範囲は、「主区」が長沙国南部(今日の湖南省の数県)、「隣区」が古越南国北部(今日の広東省と広西チワン族自治区)である。 

この『地形図』には、山脈・地形、水系・河川、居住民の居住地、交通網といった現代の地図の要素がすでに備わっている。縮尺は約18万分の一となっている。

注目すべきは、地図の中の山脈が正射投影法による線によって山の範囲が示されているほか、魚鱗状図形を用いて山の起伏や地形の高低を示し、今日の等高線による画法によく似ていることだ。八十数カ所の居住民の居住地は、四角い枠で県の管轄区域を示し、さらに70余の大小の円で、郷村の大きさを示している。25の大小の河川の形状や流れ、湾曲は、今日の地図とだいたい同じだった。

歴史地図や測量の専門家たちは、その正確さに驚いている。彼らは『地形図』が、もっとも古いエジプトの地図よりも300年以上古く、世界に現存する最古の実測地図であるとしている。

しかし、この一帯は五嶺山脈が横たわり、多くの主峰は標高1500メートル以上で、いたるところに高い山や深い谷があり、雲や霧にさえぎられ、原始のままの森林が連綿と続いている。近代的な航空測量技術がない当時、いかにして測量したのか、よくわからない。  『駐軍図』は長さ98センチ、幅78センチで、山脈や河川、居住民の居住地が描かれているが、九カ所の軍隊の駐屯地や防御区域、軍事施設、行動路線が重点的に示されている。20余の河川は青い色で描かれ、軍事防御区域は赤で表示されている。指揮の中心となる城や砦は赤黒二色の三角形で示され、各地の軍事堡塁は赤い矩形で示され、一目瞭然である。

『城邑図』には、城壁や城門、城壁の上にある楼閣、城内の街道、宮殿建築が描かれている。とくに、街道は、主要な街道は幅が広く、普通の街道は幅が狭く、分けて描かれている。宮殿や城は象形記号で表示され、現代の旅行用地図と製作法が類似している。

この彩色の『城邑図』は、前漢時代の都市の形と構造や計画的配置、城を守る施設、城壁や城、楼閣などの建築芸術の研究にとって、貴重な資料を提供している。

哲学、歴史学上の重大発見

馬王堆の帛書の中には、多くの重要な哲学と歴史の著作もあった。その中の『老子』『経法』『称』『道原』はいずれも「黄老」(黄帝と老子。老子は太古の黄帝の時代を理想としていた)の著作である。  前漢の文帝(在位紀元前179~157年)や景帝(在位紀元前156~141年)は、民力の休養政策を実施し、老子の「無為にして治める」思想を推進した。

しかし、その後、世の中が変わり、『老子』のほかは、黄帝の書は一部も後世に伝わらず、学術界は、「黄学」(黄帝の著作)の存在に懐疑的だった。しかし、馬王堆から『経法』など、すでに失われた「黄学」が出土したことは、中国古代史上の重大発見である。

本誌記者(右から3人目)の取材を受ける湖南省博物館の専門家たち

帛書の『老子』は上下二篇に分かれていて、上篇は『徳経』、下篇は『道経』で、これを合わせて『徳道経』という。これまでは上篇が『道経』、下篇が『徳経』で『道徳経』と言われてきたのとは正反対である。  また、『老子』の甲本、乙本は合計で5467字あり、今日の『老子』はこれらを集めて「五千言」といわれるが、それは確かに、かなりの「虚詞」(感嘆詞や助詞など文の主要成分でない品詞)や語句を削除したからである。  帛書の『戦国縦横家書』もきわめて貴重なものである。この書には、蘇秦、張儀ら「縦横家」(戦国時代に諸国を遊説して外交を論じた諸子百家の一つ)の言論や書簡を記録し、当時の「合従」「連衡」の活動や秦、斉、楚、燕、韓、趙、魏の七カ国の多くの史実を明らかにしている。

全部で1万1557字、27章あるが、そのうち11章は、これまでいかなる古籍にも記載がなかったものである。このため、この書は、戦国時代(紀元前475~同221年)の歴史に新たな史料を提供したばかりでなく、史書のいくつかの誤りを修正した。

例えば、司馬遷が『史記』を書いたとき、蘇秦に関する第一次史料を見ていないため、紀元前三世紀の蘇秦の事跡を誤って紀元前四世紀末とし、また5カ国による秦の討伐を誤って六カ国の「合従」とし、その時期も4、50年早くしている。

さらに司馬遷が、蘇秦と張儀讋を同級生としているのも正しくない。帛書の記載では、紀元前312年、蘇秦はまだ世間に出たばかりの青年だったが、張儀はすでに白髪の老人になっていたのである。

この書はまた、歴史学界のいくつかの論争に決着をつけた。例えば、『戦国策』(縦横家が諸侯に述べた策略を、国別に集めた書)の中の有名な『趙太后新用事』に、「左師触讋願見太后」という一句があるが、『史記』では「左師触龍言願見太后」と書かれている。清代の学者、王念孫は、古籍が縦書きだったことから、『戦国策』が「龍言」の二字を誤って「讋」の一字にしてしまったと考えた。しかし証拠がなく、学界では論争が続いてきたが、帛書『戦国縦横家書』の出土によって、王念孫が正しかったことが証明されたのである。

 

人民中国インターネット版 2010年12月

 

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