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漢俳よもやま話(7) 伊東旅情

劉徳有=文

 

劉徳有(Liu Deyou)

1931年、中国大連生まれ。日本文化研究者、ジャーナリスト、翻訳家。

1952年北京へ。『人民中国』誌の翻訳・編集に携わる。

1955年から64年まで、毛沢東、周恩来、劉少奇ら要人の通訳。

1964年から78年まで、『光明日報』、新華社通信記者・首席記者として日本に15年滞在。

1986年から96年まで、中華人民共和国文化部副部長(副大臣に相当)。

著書は『時は流れて』『戦後日語新探』など多数。翻訳書は『芋粥』(芥川龍之介)『不意の唖』(大江健三郎)『祈祷』(有吉佐和子)『残像』(野間宏)など。

 

 十八、九年ほど前に、友人のご好意で伊東温泉に招かれたことがある。友人というのは、『人民中国』誌など中国の刊行物や書籍を扱う東方書店取締役の神崎勇夫ご夫妻と関西国貿促の待場ご夫妻のことで、たまたま国際交流基金のフェローシップで東京にいた私ども夫妻に、息抜きにでもと温泉場に案内していただいた。

 目的地は、江戸時代以降、庶民の湯として栄えた温泉の町――静岡県伊東市。

 宿は、「よねわか荘」。戦前に一世を風靡した浪曲師寿々木米若が1951年に旧宅を改築して建てた平屋の数奇屋造りの和風旅館。開業祝いに、俳人高浜虚子が令嬢と共に招かれ、そのときに詠んだ句「ほととぎす伊豆の伊東のいでゆこれ」の句碑がその年の8月に建立されたそうだが、残念ながら見そびれた。

 着替えを済ませ、庭に出てみると、これまた典型的な日本庭園を満喫することができ、うれしかった。シイやザクロの低木、青々とした芝生に石灯籠、せせらぎに架かる小さな橋、目に映るもの全てが日本的情緒にあふれるものばかりだった。

 伊東市に来た以上、何といっても目玉は温泉。この宿には男女別の露天風呂があり、さっそく温泉風呂に漬かってみた。直接大気に触れ、周りの風物に目をやりながらの湯あみは、また格別であった。そのときに作った漢俳を一句――

 

 雨中伊東行,            雨の中、伊東を行く

 露天“風呂”有風情,   露天風呂に風情あり

 一浴忘東京。          ひとたび湯あみすれば 東京を忘るる

 

 夕食は、旅館の竹の間で。出された日本料理に神崎夫妻、待場夫妻と私たち夫妻の日中3家族で、和気あいあいと話に花を咲かせながら舌鼓を打った。もちろん、食卓に日本酒が出された。酒に弱い私は、もっぱら料理の方に集中したが、神崎氏は酒に目がなく、手酌でとっくりを何本も空けた。

 ちなみに、今の中国では「酒飲み」を5段階のランクに分けている。下から順番に、「酒徒」「酒鬼」「酒豪」「酒仙」「酒聖」と上がっていく。日本語に翻訳すると、さしずめ「飲んべえ」「飲んだくれ」「酒豪」「酒仙」「酒聖」とでもなろうか。「酒豪」は、大酒飲みで、しかも酔って乱れずの風格がなければならない。「酒仙」という言葉は日本にもあり、大酒飲みの意味だが、中国では「酒豪」を上回るたたずまいがないと務まらぬ。「酒聖」となれば、文句なしに横綱級の大実力者である。私の目に映った神崎氏は、「酒聖」にはあと一歩というところだが、「酒豪」を通り越してれっきとした「酒仙」である。

 ところで、神崎夫人――翻訳界のベテラン・多実子氏の編んだ夫君の文集『夢のあと――続・中国酔いがたり』に、酒にまつわる話がふんだんに出てくる。いくつか拾ってみよう。

 いわく、「中国に『一分酔酒、十分酔徳』ということわざがある。微醺を帯びる程度の飲み方がお品がよろしいという意味だが、この境地に達するのはなかなか難しい。」

 いわく、「飲酒須飲大深甌、戴花須戴大開頭(酒を飲む時はうんと飲め、髪に花をさす時は満開の花を。物事は徹底的に)。こちらの方が好みである。」

 この文集に「後記」を寄せられた杉本達夫氏が面白いことを書いている。「神崎さんはいつも泰然としていた。群の中にいても、群れてはいなかった。ばかな話も随分したが、概して口数少なく、大酒飲んでも崩れることがなかった(ように思う)。酒は主としてビールである。細い体に随分とビールは入った。飲むのはよいが、ろくに物を食わなかった。食い物の味にはうるさいらしいのに、飲むだけ飲んでろくに食わなかった。これじゃ体によいわけないよ、わかっちゃいるけどやめられない体質だったのだろう。神崎一家が我が家に先立って(北京から)帰国されるとき、わたしは都都逸をひとつ送った。

 “神崎勇夫は花ならつぼみきょうもさけさけあすもさけ”」

 さて、話を「よねわか荘」に戻そう。夜半にそれぞれの部屋へ戻ってから、天気が崩れ大雨になった。深酒された神崎氏のことが心配だった。翌朝起きて、昨夜ひねった漢俳を神崎氏に贈った。

 

 狂飲酔清宵,     朝方まで飲んで 酔いしれて

 夜来風驟雨瀟瀟,   夜来、風は驟き荒れ 雨瀟瀟

 残酒可曽消?       二日酔いは 抜けましたか?

 

 神崎氏は、2003年8月、店誌『東方』のコラム「販売随録」で私が出版した漢俳集『旅懐吟箋』を取り上げて、次のように語っている。

 「漢俳は1980年代に日中文化交流の産物として誕生した俳句のことだが、(中略)漢語の特性からこれを日本の俳句に翻訳するのは難しい。(中略)1998年、劉夫妻と伊東に遊んだ折の句が二首掲げられている。

 (露天風呂の漢俳を紹介。〈原文略〉)これはとりあえず

 伊東かなお江戸忘れの露天風呂

 と訳す。そして小生が注解で大酒飲みと紹介された上で(よねわか荘の漢俳を紹介。〈原文略〉)

 雨瀟瀟飲めども尽きぬ酒のあり

 飲むほどに雨にも解けぬ二日酔

 どちらがよかろうか」

 1976年の1月から、神崎氏は一家を挙げて北京に移住し、以来約4年間、氏は中国外文出版発行事業局所属の『北京週報』社と『人民中国』社の仕事を兼務され、多実子夫人は『中国画報』社に勤務されて、日本語訳文の質の向上に大きな貢献をされた。その年の7月、唐山大地震が発生し、北京市民がテント生活を強いられる中、「外国人村」と呼ばれていた友誼賓館の空き地にもベッドの置かれたテントが張られ、その中で、「炎天下を中国の同僚たちが届けてくれる翻訳原稿に朱を入れる作業が続けられ、雑誌『人民中国』などが、期日通り滞りなく日本に向けて出版された」と、後になって聞かされた。

 2年後に、東京での勤務を終えた私は、古巣の『人民中国』社へ戻り、短期間であったが、神崎氏と机を並べて仕事をしたことがある。

 神崎勇夫氏は、長い闘病生活の末、2008年2月18日ついに不帰の客となり、惜しまれてならない。

  

 

 

 

 

神崎勇夫氏(前列左から1人目)、夫人の神崎多実子氏(前列左から2人目)ら日本の友人と「よねわか荘」で過ごす劉徳有氏(前列右端)と夫人の顧娟敏氏(後列右端)(劉徳有氏提供)

 
 

 

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