自分の会社を持ちたい

 唐京玲さん(41)
 北京秀水商業街個人経営者

 

 店を始めて、今年で六年目。以前は工場で検査係、それから団地のエレベーター係を八年してました。どれも狭い世界の単調な仕事です。

 商売を始めたころは、ただ試してみるつもりでした。数年やってみて自分はできる、と自信がつきました。食いはぐれのない国営企業にいたころは、仕事の善し悪しは関係なかったけど、今はすべてが自分の能力次第、うまくやれば稼げるし、だめなら赤字です。昔は淡々とした毎日だったけど、今は毎日がハラハラしどおし。仕入れた品物がよく売れれば、次の荷が届かなくてイライラするし、仕入れたものが売れなければもっと焦ります。もちろん、嬉しいこともたくさんある。品物が良く売れて、同じお客さんが何度も来てくれたりするとね。とにかく昔に比べて、自由、自信、自立を感じますよ。

 私の店のある秀水街で売られている品物は、中国ならではの品物が多いから、外国人にとても人気がある。私は外国人の買い物の仕方、洋服の選び方、その心理などいつも気をつけて観察しています。簡単な英語もできるようになった。店は外国人に特に人気のあるシルク製品を扱っていますが、絶対にニセものは売らない主義です。たとえ多少利益が減ろうとも、商売は信用を売るものですよ。だから私の店には繰り返し来てくれるお客さんが多いのです。 これからの夢は、自分の会社を持つこと。まだまだ資金は足りないけど、夢は大きくなきゃね。そうすれば自分で売るだけでなく、卸売りもできるでしょう。規模の大きい経営をすれば、それだけの利益があるはずですから。

  息子にもとても期待しています。息子は重点高校の二年生、もうすぐ大学入試ですよ。息子は大学に行きたい一心で必死に勉強してます。金融の勉強をしたいそうです。息子にはぜひ外国留学もしてほしいし、将来出世してほしい。何と言っても息子達の世代は私達より、各方面、恵まれているのですから。

 
 

     脱タクシー稼業
 ちょう立凱さん(41)
 タクシー運転手

 

  夢といっても時代が違えば全然違うだろうね。私が中学生だったころは文化大革命の後期。一九七六年、高校を二年で卒業する時には、一番の夢は兵隊になることだった。なぜって? 当時もてはやされていた労働者、農民、兵士のうち一番すごいものに思えたからさ。緑の軍服をシャキッと着てね。それに軍隊に入れば入党や昇進の機会もあるし、部隊を終えても、国からいい仕事が分配されるしね。ただ家は二人兄弟で、兄貴が先に遠くの農村に行っていた。母親の体も弱かったし自分は兵隊の夢はあきらめて、七六年、卒業後は、北京郊外の人民公社で働いた。 初めは畑仕事もなかなか面白いと思ったけど、だんだん我慢できなくなった。このまま一生農村にいるのはたまらない、都市に戻りたい。そのころの夢はこれだけだった。七八年、政策が変わって、都市に戻ることができ、店員になった。十年やったころ、国営企業を飛び出して起業する「下海」がブームになって、自分もムズムズしてきたんだ。勤めをやめて、タクシー会社に移り、運転手を始めた。 九六年、タクシーは大ブームだった。自分でも一台の「面的」(ミニバン型のタクシー)を買ったんだが、半年もしないうち、「面的」は廃止されることになった。それで、すぐ一台の中古のシャレードに換えた。七、八万元もした費用は親戚や友達から借りてやっと間に合わせてね。でもこの車も古いからそのうちだめになり、九八年、新型シャレードを買いなおした。結局、中古シャレードでは、四万元の損だよ。

  タクシー運転手は、朝から晩までほんとにたいへんな仕事だよ、お客もいろんな人間がいて、腹がたつこともあるし、第一、毎日命を危険にさらすんだからね。今までぶつけられたことが二回あるよ。でも一番怖いのは人をはねることだよ。もしそんなことがあったら、この数年の稼ぎはまったく無駄になる。家の者もいつも心配している。

  あと五年、この仕事をして借金を返して、すこし儲けたら、タクシーは二度とやらない。安定した仕事に代わりたいね。収入は減るだろうけど、もう家の者に心配をかけることもないからね。

 
 

動物との共生を

郭耕さん(39)
北京麋鹿苑生態実験センター高級エンジニア

 

 今年北京で「傑出青年十人」にノミネートされた三十人は、みな会社の経営者か、さもなければハイテク関連の人材だった。そんな中に私が入ったのは、環境問題への関心が高まっていることの表れでしょう。

  子供のころから動物が好きでした。ハト、アヒル、モルモット、イタチ、フクロウ……ケガをしたり、はぐれたりした動物を見つけると何でも家に連れ帰って飼っていました。そうして可愛がっていたモルモットがよそのネコにかみ殺されてしまったことがあります。大声で泣きましたよ。そして、その後はちゃんと木の下に埋めてやったことを覚えています。私が動物を飼うのは、多くの人のように自分の所有欲を満足させるためではありません。そうした人たちは自分の飼っている動物だけを可愛がる。私は動物を飼っても、後でみな放してやっていました。

  動物を愛する気持ちは成長してもずっとありました。大学では経済を学び、その後貿易会社で四年働きましたが、動物に関する仕事をしたいと、いつも心の底で願っていたんです。

  林業部(省)が北京稀少動物馴養繁殖センターを開設したけれど、誰もそこに行きたがらない、という話を聞いて、千載一遇のチャンス、と思いました。そして一九八七年、自ら好き好んで飼育係になったというわけです。 センターで十一年働き、動物への愛情が大自然に対するそれに次第に膨らむようになった。子供時代の自己満足の行為が、いつのまにか人生の大きなテーマになったわけです。

  私は動物を見るといつも、愛情だけではなく、同情心が沸いてくる。毎日腰に鍵束をつけて、看守のような格好で動物たちの檻に行くと、彼らはただじっと遠くを眺めています。何か救いを求めるように私を見つめる動物もいるし、すさまじい叫び声をあげる動物もいる。良心をムチで打たれるようです。

  よく思うのです。もし私が彼らだったら……? 動物の感情は、人間のそれと何も違いません。生命の源は一つであり、どの存在も尊重されなければならない。だから私は動物たちの代わりに声をあげようと決めたのです。

  今は各地で、小学校から大学まで様々な学校で講演活動を続けています。動物保護を中心に「生態、生命、生活」のテーマで子供たちに語りかけています。九八年、北京の南近郊にある「麋鹿苑」{びろくえん}(麋鹿はシカ科の獣で、俗称は「シフゾウ」)に異動になったあと、決意はますます固いものになりました。

  時代は二十一世紀です。二十世紀、人類がたいへんな進歩を遂げたことは間違いがない。けれど、環境破壊も、かつてない規模で行われました。もしただ環境に依存するばかりで、最終的に人類の生命が失われるようなことになったら……。こう考えると環境保護以上に重要な問題がほかにあるのでしょうか。

  私の将来の目標? 人間はそう怖いものではないと動物たちが思ってくれるようになったら、私の仕事もある程度の成果があったといえるでしょう。人と動物が仲睦まじく暮らせる日を夢見ています。きっとそんな日がくることでしょう。

 
 

レンズで社会を記録
 黒明さん(36)
 カメラマン

 

  小さいころは画家になりたかった。家でこっそり毛主席の肖像画を描いていたのを覚えています。絵が似てなくて「反革命」にされたら大変だから、一人でこっそりとね。それから安物のカメラを買って、絵の題材の撮影を始めた。ふとんを被ってそのなかで歯磨き用コップとお碗を使って現像に成功した時は、写真はなんて速いんだ!って感動しました。絵は何時間描いたって終わらないからね。

  故郷は陝西省延川県黒家堡です。とても貧しい土地で、みんなが写真の現像液を尿と勘違いしているようなところですよ。だから追いかけて写真を撮らせてと頼んでも必ず断られた。尿をかけられるのはゴメンだというわけでね(笑)。

  八三年、偶然香港のカメラ雑誌『撮影画報』の住所を知り、陝北(陝西省北部)の生活を撮った作品を送りました。月の優秀作品に選ばれ、続けて香港の雑誌で作品を発表するようになった。当時は、延長石油管理局で撮影を担当していたけれど、そのころ、大学に行きたくなった。当時、大学卒業者は、すごい価値でした。卒業証書がなければ、結婚しようにも誰も相手にしてくれないほど。天津工芸美術学院撮影科に合格して、卒業後、故郷には戻りませんでした。都会の生活はやはり魅力的だったから。中国石油文学芸術連合会で事務関係の秘書をしたが、仕事はあまりなくて、しょっちゅう撮影に出ていました。

  四、五歳のころ、故郷の陝北の生活では、北京からやってきた知識青年たちが新鮮な事物をたくさんもたらしてくれた。どの村の小学校でも、私を啓蒙してくれた先生は知識青年たちで、彼らと一緒にいて多くを学んだ。彼らに対しては特別な気持ちがあります。けれど、彼らが今どうなっているのかは、わからない。あの時代の歴史を残しておくべきじゃないかと次第に思い始めたのです。九四年写真集『看陝北』を出して仕事に一区切りをつけた後、九五年からすべての休日を使って撮影を始めました。北京と陝北で五十人ずつを探し出し、三年かけて撮影、『走過青春』を出版。反響は大きく、何十冊も買ってくれる人もいました。

  知識青年たちは、この本は、彼らの歴史の真実の記録だと言ってくれました。資金を出したのも、当時の知識青年の一人です。彼はもし損したら、それは金を使った水切り遊びみたいなもので、いくら放り投げても何も戻ってこなかったんだと思えばいいし(笑)、もうけたら学校を建てようといってくれた。でも我々はその後本当に故郷に「斉家坪小学」を建てることができたのです。

  その後、五〇年代「右派」とされた五十七人を撮影、『走過北大』『走過清華』も出版、今は「農村調査報告」を撮影中です。昔は写真は芸術だと思っていたけれど、今は個人の思想を反映する媒体だと思っています。私はレンズを使って皆と会話をしているのです。これまでの写真はすべてモノクロ、フラッシュは一度も使ったことがありません。私の作品の特色は、社会と歴史を私の認識したとおりリアルに表現することにあると思っています。これからもこの方法で社会の記録を残していくつもりです。好きですから。

 
 

上場をめざして

 周蘇越さん(34)
 中華商務網CEO

 

 子供のころはただ誰よりも立派な人間になりたかった。五歳くらいの子供にしては、ずいぶん深刻に思いつめていたけど、それは家庭環境のせいだと思います。

  故郷は新疆の小さな山村で、父が労働改造所に送られていたため、まわりの子供たちにいつもいじめられていた。だから人より抜きんでて将来はみなに思い知らせてやる、とね。もちろん成長するにつれ、こんな狭い考え方は自然になくなり、持てる時間の全てを勉強に使うようになりました。

  八一年、西南交通大学に合格。小さな村では初の大学生でした。在学中、父から手紙が来て、また村の連中に家族がひどい目にあわされた、どうか戻って悔しさを晴らしてくれ、と書いてありました。私はただ我慢するように、と返事を出しました。当時はもう私の考え方は変わっていて、将来は大きな事業を起こし、彼らに見せてやる、と決めていたのです。

  在学中、私の一生を変えることになるもの――コンピューターに夢中になりました。一日中コンピューターに没頭する中で、このジャンルから何か事業を起そうと決意しました。卒業して八五年、新疆鉄路局に配属された。ここはコンピューターセンターができたばかり、私は二十二歳で、研究室主任になり、科学研究チームの指導にあたりました。

  当時、中国では外資系企業が立ち上がり始め、私はあるアメリカ企業の新疆事務所に主任として転職、のち北京事務所の主任、アジア地区総代表にまでなりました。九四年にはここから国家信息中心に移りました。給料は月千jから八百元と約十分の一に下がり、まわりからは変人扱いされましたよ(笑)。

  でも小さいころの私の最大の夢は先にも言ったように、立身出世でした。国家信息中心は、国家レベルの機関の一つで、農村出身の私には、ここが夢の到達点のように感じられたのです。そして二年過ぎて、もう十分に夢を実現したと思えました。私は三十歳、次の夢を探し、自分の事業を立ちあげるべき時期でした。 私の立ちあげた情報サイト、中華商務網は、次第に規模を大きくしています。 ネットビジネスに関わる企業家は誰でも一刻も早い株式の上場をのぞみます。実は昨晩もその件で遅くまで会議をしていたところです。

 でも、夢を実現させるのはまず今の課題をより良く成し遂げることが大事ですからね。まず情報サイトを更に充実したしっかりした内容にすることに力を尽くしたいですね。

 
 

北京で生きる
 張建明さん(34)
 事務員

 

 小さいころ二つの夢がありました。両方とも実現しなかったけど。 村では野外上映会がよくあって、しょっちゅう戦争ものの映画を楽しんでました。特に『地雷戦』とか『地道戦』などが好きで、夜になると将軍になって大軍を指揮する夢を見てましたよ。けれどこの夢は中学卒業時で終わり。

  家は三人兄弟で、兄貴二人はもう人民解放軍に入隊してた。自分も入隊の面接試験、身体検査の両方を通っていたけれど、村から許可が出なかった。村では労働力として家に一人は子供を残し、両親の面倒を見させることにしていたんです。

  次は警察官になりたかった。農村では警察は治安を守り、悪者を懲らしめ、実に立派に見えるからね。けれど中学しか出ていなかったので、試験を受けられなかった。

  高校に進学できなかったのは、当時、村でも請負い制が始まっていて、家に分けられたのは二・五ムー(一ムーは六・六六七e)の田んぼと、みかん畑、それに養魚場。働くのは父親と私だけだったからですよ。畑仕事を十年やり、その間に理髪の仕事を覚え、隣村のレンガ工場でも働いた。それで金をためて、六間の家を建て、女房ももらいました。

  一九九〇年から村では出稼ぎに行く連中が増えてきた。友人に、北京ではサービス業の人手がとても足りない、きっと稼げるといわれ、私も九六年、北京に出てきました。ある会社の紹介を受けて、復興医院で介添えを始めたんです。病院では一年。ものすごく大変でしたが、稼ぎは良かった。病院でよくやっていたことが認められたのか、会社からサービスセンターで働くよう言われました。会社は、近所の住民に、家政婦やパートや病人の介添えを紹介していて、出稼ぎにきてるのは、だいたい四川、湖北、山東の農村からです。今の仕事は介添えみたいに大変じゃないが、稼ぎはあれほど良くはないね。でも仕事は安定している。今、私と兄貴たちで毎年両親に三千元あげてるけど、農村では中くらいの生活だと思います。

  自分の今の生活にはとても満足している。北京にいるのは簡単なことじゃない、自分は頑張ったからこうしていられるのです。これからも仕事をもっと頑張りたいですよ。田舎では今女房だけが七歳の子供と両親を見てる。田舎の両親は住み慣れた土地を離れたくないし、父親は孫とも離れたくないという。両親を見取ったら、一家揃って引っ越しするかもしれないね。まあそれも先の話で今はとにかく息子としての責任を果たすことですよ。

 
 

何よりも自由を

 王暉中さん(29) インターネットカフェ経営者

 

  小さいころは何になりたいかというより、どんな生活をしたいかばかり考えていた。父は北京大学法律学部の教授で、典型的なインテリ。僕への締め付けはかなり厳しかった。行動を締め付けるというより、自分で何か考えることを許さないんだ。六時起床、学校では先生にいつもほめられるよう、そしてよく勉強せよ……ほんとに窮屈で、人はこんなことのために生きるのかと思ったよ。そのころマスコミでは時々、全然違うライフスタイルが紹介されていた。まるで別世界みたい。生活はこんなふうに自由であるべきだと思った。中学に上がるとますます生活が苦痛だった。親への反抗も始まった。もちろん幸せなこともあったけど、それは全部勉強と関係ないことだった。人がまったく正常じゃないと思うことが、僕には逆に正常に思えた。ジーンズをはいて、ロックを歌った。そういう勇気がどこから来たかって? 自分でも分からないけど、ただひたすら自分を表現したかったんだ。父が何と言おうともう関係なかったけど、目をかけてくれてると思ってたやさしい先生も今度は全然認めてくれない。すごく厳しい表情で「なんだってこんな格好をするんだ!思想的に問題がある」っていわれた。それからブレイクダンスにはもっと狂ったよ。徹頭徹尾、自分をさらけだすべきだと思った。それから北京大学の構内にある「三角地」という有名な広場で、ギターを弾いて流行歌を歌ったりもした。

 二十三歳で家を出て、後に結婚することになるガールフレンドと一緒に暮らし始めた。彼女は両親が二人とも外国にいて、僕には収入がなかったから、責任感が生まれて来て、中関村のコンピューター会社でアルバイトを始めた。アルバイトは能力の浪費に思えて、二年後には友達とコンピューター会社「利柏科学技術公司」を起こした。投資はわずか数千元、最初はテーブルとイス二つ、金庫が一つだけだった。コンピューターのプロもいなくて、まるで素人集団みたいな感じだったよ。家に帰ることもできたけど、帰りたくなかった。そして五年が過ぎた。会社は毎年成長を続けている。ライフスタイル? もちろん衣食の問題は解決したし、上司の顔色を伺うこともない。でもプレッシャーは大きい。稼がなければ、誰にも相手にされないよ。

  将来? 会社を大きくしたい。IT業界の指折りの会社にしたい。自分の始めたNGインターネットカフェを一つのブランドにして、この通りを総合カルチャーサービスを提供する場にしたい。自由については考え方が変わった。自由はまず自分の願望にある。それから自分の生き方にある。古い考え方を捨て、抑圧から自分自身を解放させてこそ始めて前に進めるんだ。

(つづく)