二十一世紀中国へ
夢のバトンタッチ

 
 

 二十一世紀がついに訪れた。二つの世紀が交代する瞬間に立ち会うことができた私たちは、これまでにもまして過去をふりかえり、未来に思いを馳せる。

 本特集では年齢、性別、職業、階層が異なる二十一人が登場、心の内を語る。新世紀に向う二十一人の姿を通して、新しい中国が見えてくることだろう。

 

 
  さらなる中日交流を

鐘敬文教授(98)
中国民俗学会理事長、民間文芸家協会名誉主席
「中国民俗学の父」と呼ばれる

 

 私のような年齢の者が昔のことを長々と話すのもどうかと思うし、新世紀に対する大胆な抱負は若い人にゆずりましょう。先ほど関西大学から魯迅の研究者、鳥井克之教授がいらしていたので、その時の話題に続けて中日文化交流の話にしましょう。

 文化は長い時間をかけて、実りをもたらすものです。大詩人・屈原、偉大な歴史家・司馬遷、彼らの身体は今、骨のかけらさえ残っていませんが、作品は永遠に世に受け継がれています。そして文化は交流を必要とするものです。私達がよく言う「文化圏」とは、文化交流の結果生まれたものです。中国、日本、韓国、ベトナムなどは一大文化圏で、千年以上の交流史があります。中国文化を対象にする日本人研究者が交流を必要とするのはもちろん、日本文化を対象とする日本人研究者にも交流は欠かせないでしょう。

 先月、雲南省では、日本から学者四十人が参加して、国際稲作文化研究討論会が行われました。日本は昔、陸稲を栽培していましたが、その後、中国から水稲が伝来しました。ただし、それはいつの時代で、中国のどこからなのか? 一説では雲南、そのほか江南地方や、福建省などの説もあります。学者たちは水稲伝来の長年の謎を解くため集まったのです。

 私のような中国文化の研究者にも、もちろん交流は必要です。歴史の変転のなか、失われた中国文化は少なくありません。唐代の文献、音楽、舞踏、例えば雅楽『蘭陵王』など、今では中国から失われ日本にのみ残っているものもあるのです。このようなものは日本に研究に行かなければなりません。

 ここ十数年、関係者の往来、書籍の出版、留学生の交換は、非常に活発になっています。関係者の往来は、団体交流も、個人的に研究に訪れる人もいます。例えば、伊藤清司・北京師範大学民間文化研究所客員研究員は、頻繁に日本と中国を行き来しています。二年前、私達は研究者向けの民俗学講座を開設し、伊藤研究員はその折、講師としても北京を訪れました。伊藤研究員から最近日本で出版された『日本民俗大系』全十二巻を受け取りました。また彼は雲南で、『中国古代文化と日本』という本を出版しており、中国の民俗文化、民話について、すぐれた研究活動を行っています。

 書籍の流通も目をみはるものがあります。中華書局の要請で、私自身も今、『世界民俗学叢書』の編さんにとりかかっています。これは理論書で、今序文を書き進めています。これには柳田国男の『民間伝承論』も収録される予定です。

 相互の留学生の交換はさらに重要でしょう。例えば私が指導教官として担当した高木栗子さんは、博士課程を修了し、彼女の論文「中国と日本の民話比較」は、日本で出版される予定です。彼女は現在、中国人民大学日本語科で日本語を教えながら民俗学の講義も行っています。また高木さんが北京放送で、日本人むけに紹介している中国民間伝説は、とても人気のようです。

 私は、一九三四年から三六年、早稲田大学大学院に在籍し、柳田国男などの文献を学びました。それは生涯にわたり私の学問の基礎になっています。新世紀を迎えるにあたり、さらなる中日交流を改めて期待したいと思います。

 

 
 

 
  女性の独立と解放を求めて

 陳霞飛さん(79)
 元中国社会科学院研究員

 

 私は新聞、雑誌などの仕事をし、それから中国社会科学院に移りました。新世紀の夢、というより今は思い出のほうがよみがえってくるわ。もう八宝山公墓の入り口あたりにいるんじゃないかしら(笑)。

 私の育った家は、父が新しもの好きで、家庭には落ち着きがなかった。だから私はいつも母に、自立しなさい、といわれて育ったの。私のもとの名前は陳侠飛というのです。武術に秀で、強くて、そして自分で何事かを成し遂げる人間になりたかった。専業主婦なんて絶対にいやでした。たった九歳で、「九・一八」(柳条溝)事件当時に抗日集会に演説に行ったこともある。台が必要なくらい背が低くて、まだ歯も生え揃わない時のことだから何を話したかはよく覚えていません。でも演説が終わったら、子供だったせいか拍手喝采をあびたのよ。

 若いころは女優みたいにきれいだと言われました。でも今と違って当時は美しいのは災難のようなもので、男たちのからかいの対象になるだけでした。今ならセクハラというところでしょうけど。それをかわすのに皆大変な思いをしていました。女性が自分に自信を持って生き、何かに秀でた人間になろうとするなら、絶え間ない努力が必要です。まったくそれは簡単ではありませんが、私は飾り物にだけはならなかったのです。

 父の浮気性のせいで四歳から様々な街に移り住み、転校を繰り返しました。抗日戦争が始まると南京から重慶へのがれ、左翼団体の演劇運動に参加し、周恩来、*頴超の指導下、革命に力を尽くした。解放後も女性の独立と解放を休むことなく求める人生でした。そう、私のような女性は、まさに時代の産物なのかもしれませんね。

 中国社会科学院では、十一年の時間をかけて、『中国税関秘録』を仕上げました。これは中国社会科学院の優秀科学研究成果賞を受賞しました。その後は小説の創作を手がけ、八年の歳月をかけて六十万字の『世紀の愚者』を書上げました。

 新世紀の目標はまず新しい本を書くこと。そして主張を続けること。正義のために声をあげ続けていたいのです。

 
 
 

 
  古代建築に情熱を燃やす

羅哲文さん(76)
国家文物局古建築専家組組長 中国長城学会副会長
 

 

 私は四川省宜賓の生まれです。中学の時、抗日戦争が勃発し、北平(北京の旧名)から大学の多くが四川に移転してきました。そして有名な建築学者、梁思成が創設した中国営造学社も宜賓に移ってきたのです。四〇年、中国営造学社に入り、その時から中国古代建築と私は固いきずなで結ばれたのです。

 新中国建国後は、文物局に入りました。一九五二年、万里の長城修復プロジェクトが始まりました。第一の修復地点として私は、今では有名な観光ポイントになっている八達嶺を選びました。当時、私達はまず汽車で八達嶺まで行き、それから徒歩、さらにロバにのって山をのぼり、調査を繰り返しました。そんなつらい仕事を一年以上続け、ついに八達嶺は対外開放され、多くの観光客を集めるようになりました。万里の長城を宣伝するにあたり私は『万里の長城、居庸関、八達嶺』を執筆しました。仕事を通して、長城の偉大さを改めて認識しました。そして万里の長城への情熱と興味がわきあがってきたのです。それから半世紀、私は全国十数カ所の省、市にわたる長城の遺跡のほとんどを訪ね、数百万字の著作にまとめました。さらに私は中国古代の塔、橋、亭などについて調査を行い、長年の研究の成果をもとにして、そうした建築物の保護に対し、研究テーマおよび対策について提案を続けています。過去をふりかえり、また未来にのぞんで改めて、中国の古代建築保護は、これから中国にふさわしい在り方で、独特の道を進むべきだと信じています。

 

 
 

 
     父の遺志を継ぐ

 劉山永さん(62)
 中国中医薬学会李時珍学術研究会副主任


 

 

 一九八七年、父は臨終の間際に『本草綱目』の数種の異本を比較、対照し、正確な原本を求めるために書きためていた草稿を私に託しました。それは父が十年の心血を注いだもので、まだ出版のあてもないものでした。私は当時、四十九歳。廠橋医院の鍼灸師でしたが、思い切って安定した仕事をやめ、月に百元にもならない遺族手当だけを生活の糧に、父の遺志を継ぐ決意をしたのです。

 『本草網目』は、明代の李時珍が、数十年の歳月をかけて著わしたもので、千八百九十二種の生薬、一万一千九十六の処方、一千百九の生薬の絵図が記録された、中医学に残された至宝ともいえるものです。この書物の原本と変転を探るため、私は体の障害も顧みず、北京中の図書館を回り始めました。特別の許可を得て北京図書館の「地下戦備書庫」にまでも入り、そうこうして五、六十種の版本を探し出し調べ始めたのです。中でも明、万暦年間から清、光緒年間の二百八十年間に出た九種の版本にしぼって比較を行いました。

 早起きして、飲み物と饅頭くらいを持って、自転車で片道一時間半かけて北京図書館に向かいます。そして丸一日調べものです。こんな生活を四年間続けたあと、往復の時間も惜しくなって、北京図書館の近くに臨時に部屋を借りました。

 またたく間に十年が過ぎました。そして父子が二十年の歳月を注いだ原稿は、遂に脱稿し、華夏出版社から世に送り出すことができたのです。

 この本は、経書、歴史、諸子百家、詩文集から三百八十七文献を参考にし、新たに加えた注釈は一万六千、計百万字になりました。

 出版後は、学界から非常に注目され、『本草綱目』を新たに整理し濃縮させた学術的価値の極めて高いものである、との評価を受けました。一九九九年六月、「全国科学技術図書および科学技術進歩二等賞」を受け、同年十月にはまた「国家図書賞」の候補にもなりました。父の遺志を果たすことができて息子としてほっとしています。

 今、私は新たな仕事にとりかかっています。一つは華夏出版社から刊行中の『本草網目』全四百巻の編集、監修です。これは古今の各版本、文献を再整理し、新たに出版する壮大な計画で、これまですでに八十冊が刊行されました。 二つめは『本草網目研究大成』シリーズの企画編集で、これにも取り掛かっています。

 

 
 

 
  卓球強国から世界に発信

 周樹森さん(59)
 国家級卓球コーチ
 

 

 おそらく兄(周蘭*、ナショナルチーム優秀選手)の影響だと思うのですが、子供のころから卓球が好きでした。最初に試合に出たのは小学校六年生の時で、故郷の杭州で開催された少年卓球大会、準優勝でした。そのころ第二十五回世界卓球選手権で優勝した容国団選手が杭州を訪れ、私は選ばれて彼と対戦したのです。心から容選手に憧れていました。

 一九五八年、杭州市卓球チームに入団し、六四年にはナショナルチームに選ばれました。当時は私の卓球選手としての全盛期で、国内外の試合で、団体でも個人でも良い成績をおさめていました。

 一九七四年から、ナショナルチームのコーチとなり、一九八一年、北京女子卓球チームのコーチとして赴任し今に至っています。

 コーチとしての長い経験で悟ったのは、最も重要なのは、各選手の長所を見抜いて伸ばす、ということです。短所はそのうえでカバーすればいいのです。

 卓球の世界も変化は早く、選手は次々に交代していきます。老コーチとしては、いたずらに過去に固執することなく、新しい技を編み出し、才能を伸ばすことの必要性をますます痛感しています。例えばもと私のチームにいた張怡寧は、「カミソリ打法」と呼ばれた必殺技を編み出しました。フォアハンドで最大の速度と力で球を打つもので、当時は全国で最新の技でした。頭を剃るカミソリの動きを連想させたから、こんな名前で呼ばれたのです。コーチの指導下、彼女はこの技を完全にマスター、圧倒的な強さでした。彼女はそれからナショナルチームの主力選手、王楠、喬紅、斉宝華などと試合をし、次々に勝ったのです。多くのナショナルチームの選手が彼女に教えを請いに訪れました。のち張選手はナショナルチームに選ばれ、世界選手権女子シングルス準優勝という優秀な成績をおさめたのです。

 新世紀を迎えて、卓球界も技術がますます進歩し、国際間の競争も激化しています。私達も新しい戦略を立てなくてはなりません。まず休みなく技術的向上を目指すこと。それぞれが得意技をもつ優秀な選手を養成しなくてはなりません。また将来に備えて、そうした技術が受け継がれるべく、次世代の選手を育てることも忘れてはなりません。そして国際交流を深め、卓球強国中国の技術と友情を世界に発信していくことも重要です。

 私も年をとっていきますし、コーチを続ける年数は、もうそれほど長くないことでしょう。ただコーチである限り、今までと同じように中国の卓球の発展に力を尽くすつもりです。

 

 
 

 
    女性は四十にして立つ

 張麗娜さん(48)
 北京三家村文化実業有限公司総裁


 

 

 四十歳で初めて自分の会社を設立しました。人生に踏み出した大きな一歩です。工商局に特に頼んで、二月九日の日付で営業許可証を発行してもらいました。それは私の誕生日で、自分への贈り物にしたかったのです。よく男性は「三十にして立つ」といいますが、女性の場合は「四十にして立つ」ではないかしら。

 私は文化大革命、農村での労働を経験した世代です。一九六八年、十六歳で内蒙古建設兵団に入り、その後工場労働者や、地質調査員もしました。後悔してるとか、してないとかの問題ではありません。それしか選択はなかったのです。

 ただ当時の多くの苦労は、忍耐力と意志力の訓練に間違いなく役立っていると思います。あのころは、世紀末に自分の会社を持つことになるなんて、想像もできませんでした。

 私の会社の名前「三家村」は、私の世代の経験と関係があります。文化大革命は「三家村」の批判から始まったのです。三家村は、*拓、呉*、廖沫沙の三人の共同のペンネームで、当時私が最も尊敬していた老革命家であり、文学者でした。 会社を設立してから、多くの資金とエネルギーを注ぎ、『*拓詩集』、廖沫沙の散文集『瓮中雑俎』、討ケ拓の作品集『燕山夜話』など三家村の遺作シリーズの企画を手掛けました。社会的な反響はとても大きく、文化に関わる会社としての評価を得ることもできました。

 会社のもう一つの業務は、子供向けのノートの制作です。こうしたノートはちいさな飾り罫一つ、マス目一つでも決してゆるがせにしません。このように制作したノートを通して、子供達にまじめな人生態度を学んで欲しいからです。

 会社は八年になりますが、とても楽しい。自分の力で自分の好きなことをするのは、多くの努力が必要とされるのはいうまでもありませんが、成功する可能性が高いのではないでしょうか。もちろん、一部の莫大な利益をあげている会社に比べれば、私の会社の利益はわずかかもしれません。でも文化に関わる会社は、豊かな蓄積のなかから、選りすぐりのものを世に出す経営態度であるべきだと思います。

 今の夢は、自分の出版社を持つことですね。数年来、多くの本に目を通し、企画し、世に送り出してきました。ずっと書籍と関ってきた人間として、いつか自分の本を書いてみたいと思います。一人の女性の経験と思いを表現してみたいのです。

 

 
 

 
  息子への夢、自分への夢

 朱愛冬さん(46)
 会計係
 

 

 昨年、勤めていた国営企業から一時帰休を言い渡されました。学校では二百人ほどの紅衛兵のリーダーとして活躍し、高校を卒業してからは国営の大工場に仕事が決まりました。そのころは理想の勤め先だと思いましたよ。そこでまず労働者、それから幹部に昇進して、工場内の新聞の編集長をしていました。一時帰休を言い渡された時、学校を卒業してから通った成人学校の卒業証書や、数々の表彰状、自分が編集した新聞などを前にして、たまらない気持ちになりました。こんな長いこと働いて、何も特技がないことに初めて気がついたのです。これからどうしたらいいんだろう? とね。

 でも息子のことがあった。息子は負けず嫌いで、重点中学に合格しています。学費は毎学期三千元余り。私の一時帰休後の手当は月七百元ですが、夫の勤め先の工場は私のところよりもっと経営難で、月収はたった五百元ほど。何か方法を考えて働かなきゃ、息子の一生を台無しにしてしまう。私は大学に行く夢も、医者になる夢も破れてばかり。だから私の夢を息子に実現して欲しい。どんなにつらくても仕事を探さなければ、と決めたのです。

 毎日、自転車で往復二時間かけて、会計学校に通い始めました。実際のところ、人が四十歳を過ぎて新しい技能を身につけるのは、本当に大変ですよ。九ヵ月頑張って、資格をとったところで、すぐ内装工事の会社に採用されました。今の会社は人数が足りないので、私はコンピューターの扱い方も覚え、書類を作るような仕事もしています。仕事が見つかって、今また青春が戻って来たみたいですよ。 二十一世紀には、息子の大学進学や出世を期待するだけでなく、自分も出来る限り学び、働いて社会の役にたちたい。二つの世紀を生きる、たくましい女性らしくね。

(つづく)