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激動の歴史を記憶する 故宮周辺

 

多元的な文化が花開く

 

大柵欄では、北京の伝統的な文化を体験し、特色ある商品を購入できる。(写真・沈暁寧)
明朝が滅亡して間もなく、清の軍隊が山海関を経て北京に入った。この満州族の政権は北京で「満漢分治」(満州族と漢族を分けて統治する)を行い、漢族の一般庶民をすべて城南へ移住させた。これにより、北京城は東城に金持ちが多く、西城に役人が多く、中央に宮殿があり、南城に庶民がいるという構造になった。

 

また、中国全土から毎年、科挙を受けるために北京にやって来る受験生や各地を遍歴する商人たちは、北京の庶民たちと交ざって南城に住んだ。彼らによって各地の宗教、民俗、建築、文芸、飲食が北京にもたらされ、南城には多元的な「城南文化」が生まれた。

 

北京っ子はこの「城南文化」の薫陶を受け、貴族の豪華さと豪快さ、庶民の小粋さと温和さ、文人の孤高さと礼儀よさ、武人の強靭さと義理堅さ、さらには、北方人のさっぱりとして義侠心に富んだ性格、南方人の繊細で含蓄がある性格をすべて備えるようになった。そしてこれが、北京情緒となった。

 

北京情緒を味わうには、もっとも賑やかであった繁華街・「前門」と「大柵欄」一帯に足を運ぶといい。ちなみに、「ダアシーラア」は北京っ子独特の発音で、共通語では「ダージャーラン」。

 

「大柵欄」という名前が付けられたのには、次のような歴史的要因がある。

 

20世紀初頭の前門商業区の様子
明代、「廊房四条」と呼ばれていたこの地域には商工業が集められ、宮殿区と庶民生活区を隔てていた。その後、清朝の「満漢分治」に漢族は不満を募らせていたため、康煕帝は宮殿区の治安を守ろうと、胡同や路地の入口に木製の柵門を設置し、決められた時間だけ開け閉めするようにした。大きな店舗が集中していた「廊房四条」には、とりわけ高くて大きい柵門を設けた。そこで、知らず知らずのうちに、庶民はここを「大柵欄」と呼ぶようになった。

 

当時、大柵欄の路上は人々でごった返し、小商人たちはさまざまな呼び声で客の注意を引き、その様はまるで歌の競技会のようにひっきりなしだったという。また、芝居小屋から湧き上がる喝采に、道行く人々は足を止めずにはいられなかった。

 

道の両側には、飲食店や茶館がずらりと並び、文人たちはここで議論したり、詩や絵を創作したりした。また、高官や身分の高い人たちはここで宴席を催し、大金を惜しげもなく使った。商人たちはこういった雰囲気の中で、思う存分金を儲けた。

 

今この地域は、1920、30年代の景観を再現しようと大規模な改修工事が行われている。来年には完工する予定で、そのときには、青白石を敷き詰めた幅21メートル、全長845メートルの新しい前門大街が姿を現し、「当当車」(チンチン電車)が50年ぶりに路上によみがえる。

 

「当当車」とは、一九二四年に北京が外国から導入した路面電車。車両は木製で、先頭と後尾に運転席が設けられており、「チンチンチン」と鐘を鳴らしながら走っていた。そのため、庶民たちはこの電車のことを「当当車」と呼んでいた。

 

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