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中国古典詩学者 葉嘉瑩氏に聞く

 

20世紀を生き抜いた波乱の人生   古典詩詞から悟った「弱徳の美」

  

王衆一=文 南開大学古典文化研究所=写真提供

 葉嘉瑩氏は中国でとても知名度が高い伝奇的な人物だ。今年3月、世界中のメジャー中国語メディアが共同主催した「『世界に影響を与えた中国人』賞式典」で受賞者が発表された際、葉氏は中国古典詩詞の伝承・研究・普及において卓越した成果を収めたとして、ノーベル賞受賞者の屠呦呦氏らと共に受賞の栄誉に浴した。古典詩詞とは、ほぼ日本でいう漢詩のことだが、宋の時代に流行し始めた「詞」という形式のものも含まれている。「詞」は、唐詩のように一句の文字数が五字や七字というふうには決まっていない。長短の句が入り混じって変化に富み、従来の詩よりも格段に複雑な規制がある。本誌総編集長の王衆一が葉氏に特別インタビューを行った。

 

家庭で育まれた詩の才能

 古典詩詞との出合いについて、葉嘉瑩氏は自身の家系からとうとうと語ってくれた。1924年、北京の旗人(清代の「八旗」に属した人)の家庭に生まれた葉氏。祖先はもともと蒙古族の旗人で、本姓を葉赫那拉(エホナラ)といい、辛亥革命の後、葉姓に改姓したという。清代初期の著名詩人である納蘭性徳(1655年~85年)と同じ家柄の出身であることから、葉氏の詩に「我与納蘭同里籍(私と納蘭は本籍が同じ)」という一句がある。   「一族一同が一緒に暮らしていました。父が初歩的な声律について厳しく教えてくれたため、平仄(イントネーションによる韻律を区別するために、四声を「平声」と「仄声」の2種類に分ける考え方)や入声(「額」「忽」など、古代中国語において子音で結ぶ字のこと。現代中国語ではすでにその特徴を失っている)の識別ができるようになりました。父方の伯父からは詩と詞の美しさやインスピレーションについてよく教わりました」

 20世紀初頭、葉氏の伯父は明治維新後の日本について学ぶため、早期の国費留学生の一人として日本へ留学し、帰国して医者となった。現実に対する失望からか、最後まで辮髪を切らなかったという。そんな伯父を見て、葉氏はいつも『人間詞話』を著した国学の大家である王国維(1877年~1927年)を思い浮かべていた。一方、葉氏の父は北京大学英文科に合格し、卒業後、当時中国初の航空関係機関だった航空署に就職。数多くの航空関係書籍を翻訳し、後に上海の中国航空公司に転職して人事課長を務めた。

 伝統的な家庭教育を受けた葉氏は幼いころから大量の古典詩文を熟読暗唱していた。少女時代、すでに「植本出蓬瀛,淤泥不染清,如来原是幻,何以度蒼生(蓮の花は仙境に生え、泥に染まらず清らか。如来がもともと幻であるなら、何をもってこの世を救済するか)」という高遠な境地の詩を詠んでいる。

戦乱を経て恩師に出会う

 「父と先生方はいつも私に英語の勉強の重要性を説いていました。中学2年生の時、とても良い先生について英語を勉強していたのですが、その年の夏休みに『七七事変(盧溝橋事件)』が起こって全てが変わってしまいました。何度か転居を経て、米国に行った後、必要に迫られてやっと英語を覚えたのです」

 中国に対する日本の侵略戦争は葉氏一家の運命を変えた。父は大後方重慶へ行って、アメリカ人のクレアリーシェンノート将軍が率いる航空隊、フライングタイガースへの協力に加わった。そのため、家族との連絡は途切れた。一方、一家が新しく購入した家は日本軍に強制的に貸し出され、葉氏が最も好きで頼りにしていた母もこの間に病死してしまった。大きなショックを受けた葉氏だが、この時はまだ17歳という若さだった。

 「そういう状況だったので、被占領期間中、中国人の学生は日本に対してかなり抵抗感を持っていました。学校側は日本語を学ばせようとしましたが、私たちは全くやる気がなく、授業中も下を向いてクルミを割って食べていました。全然身に付かないので、先生は毎年最初から教えざるを得なかったのです。今考えると、とても幼稚なやり方だったと思いますが、当時は日本に対する反感から、日本の映画も見ませんでした。でも一曲だけ、日本の童謡を今でも覚えています。『春が来た』という曲で、中学2年生の時に習ったものです」

 1941年、葉氏は輔仁大学で4年にわたる学生生活を始めた。ここで出会ったのが、中国と西洋の学問を共に修めた顧随氏だ。 「顧先生の古典詩詞の授業を聞いて大いに視野が広がりました。先生は教科書の知識を教えるのではなく、心を啓発してくれました。卒業して教師となった2年間を含めて、私は6年間続けて顧先生の授業を選択し聴講しました。講評や修正していただいた詩と詞の原稿はいまも大切に保存しています」

 顧氏から受けた影響は詞のインスピレーションに関してばかりではない。被占領地区にいた葉氏にとって心の支えともなっていた。

 「先生は時局に合わせた即興の詞を作られました。ある日の授業で、シェリーの『西風に寄せる歌』にある『冬来たりなば、春遠からじ』を中国の古典詩のように書き換えて、『耐他風雪耐他寒,縱寒已是春寒了(風雪にも厳寒にも負けず、たとえ寒さを感じるとしてもそれはすでに早春の寒さである)』とし、まもなく来る勝利に対する自信と期待を託しました」

 1943年に葉氏はこの二句の詞を基に、「踏莎行」(詞牌の一つ)の格式に合わせて作詞した。14年後の57年に顧氏もこの二句を思い出して、偶然にも同じ「踏莎行」に合わせて作詞したが、この時、葉氏はすでに海峡の対岸へ渡っていた。時を隔てた恩師と教え子の唱和である。たとえそれぞれの心境は違っていても、古典詩詞によって外界の障害を乗り越えて心を通わせることができるとは、なんと素晴らしいことだろうか。才能豊かな顧氏だったが、60年、64歳の年でこの世を去った。74年に葉氏が中国大陸部に戻った時、伯父と顧氏がすでに亡くなっていたことは、彼女にとって一生の心残りとなった。

 

 
 顧氏が添削した原稿

 

 

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