明朝時期(1368-1644年)

 

1368年、明朝が元朝に代わって中国を統治してから、中央政府の設立したチベット事務を専門に管理する機構――宣政院およびチベットの僧侶を帝師に冊封する制度を撤廃し、最高級の僧官を「法王」と呼ぶ一連の独特な特色をもつ僧官制度を確立した。法王は元朝の帝師と違って、北京に駐在せず、全国の教務を管理する職権がなく、固定した領地もなく、等級は栄誉の性質に属し、高低の別はあるが、互いに統轄せず、ともに政務を管理しなかった。法王の下の僧官は「王」と称し、彼らはそれぞれ領地があり、それぞれ一定の区域を統轄したが、互いに隷属せず、直接中央政府の命令に従った。

 

チベット地方に対する明朝中央の管理は、元朝の方法を踏襲し、前後して烏思蔵、朵甘という2つの「衛指揮使司」と「俄力思軍民元帥府」を設置し、それぞれ前チベット、後チベット、チャムド、アリ地区の軍事と政治事務を管理させた。

 

清朝時期(1644-1911年)

 

1644年、清朝は明朝に取って代わってから、チベット地方の主権行使に対する法律と制度の保証を確保するため、一連の厳密で効果的なチベット管理の法規と制度を確立し、いっそう著しい成果をあげた。

 

第1、チベットの行政区域を法律で定めた。清朝の中央政府は全国の行政区域を区画した時、チベットの行政区域を法律で定め、法規の形でチベットと隣接する雲南、四川、青海、新疆の行政区域の境界を画定した。チベット(当時は「衛蔵」とも称された)の行政区域はいまのチベット自治区の管轄区域に相当する。

 

第2、チベットの政治体制、行政管理体制、地方政権の組織形態を決定した。清朝が1793年に公布した「欽定チベット規約」と清朝の行政法規集をより集めて編さんした『大清会典』は、チベットでは、ダライとパンチェンがそれぞれ前チベット、後チベットの宗教と部分的な行政事務を管理し、互いに隷属せず、駐蔵大臣がチベット全体を統轄すると明確に規定している。

 

第3、チベットの宗教首領を冊封した。西暦1653年、清朝の中央政府は第5世ダライを「西天大善自在仏所領天下釈教普通瓦赤喇恒喇ダライラマ」に冊封し、西暦1713年、第5世パンチェンを「班禅額爾徳尼(パンチェン・オルドニ)」に冊封した。その後、歴代のダライとパンチェンは中央政府の正式な冊封を経てはじめて合法的であることが歴史的制度となった。

 

第4、宗教首領が権力で私利をはかるかあるいは勢力を拡大するのを防ぐため、清朝の中央政府は西暦1793年に金瓶掣簽(金瓶を使ってくじ引きをする)制度を確立して、以前にダライ、パンチェンあるいは大ラマ僧が後継者の候補者を自ら決定する弊害を取り除き、駐蔵大臣の監督・主宰の下で、金瓶掣簽を通じてダライ、パンチェンあるいは大ラマ僧の継承者の対象を選定し、中央政府に報告して認可を得てからはじめて合法的な継承者になれるように改めた。これはチベットの宗教に対し行政管理を強化する清朝中央政府の重要な措置であり、チベットに対する完全な主権行使をも体現している。

 

中華民国時期(1912-1949年)

 

1911年、中国で辛亥革命が勃発し、翌年、漢族、満州族、蒙古族、回族、チベット族などの民族が一体となる中華民国が樹立された。中華民国の期間に中央政権は頻繁に交替したが、チベットに対する歴代の中央政府の基本的政策は、終始国家の統一、主権、領土保全を堅持した。

 

第1、政府の宣言と立法などの形式を利用して、チベットに対する国家の主権を守った。1912年3月11日、孫文が主宰して制定、公布した「中華民国暫定憲法」「総則」第三条は、チベットは中華民国の22の行政区域の一つであると規定している。これは「臨時憲法」の形で、法律上からチベット地方に対する民国政府の主権を規定している。その後に公布した「憲法」のチベット地方に関する規定の基本的精神と核心的内容は、いずれもチベット地方が中国領土の不可分の構成部分であることとチベットに対する中央政府の主権を強調している。

 

第2、チベット地方の事務を管理する中央機構─―蒙蔵事務局と蒙蔵委員会を設立した。中華民国は1912年にチベットと蒙古地方の事務を主管する中央機関として、国務院に直属する蒙蔵事務局を設立した。蒙蔵事務局は1914年に蒙蔵院に改められた。1927年に南京に遷都し、南京国民政府が成立してから、蒙蔵院に対し制度改革を行い、蒙蔵委員会を正式に設立した。第9世パンチェン、第13世ダライとチベット地方政府の北京駐在代表ゴンジョズォンニ、ツォンギャフトクト、ヒヤンギャムツォ大師らは、みな蒙蔵委員会に参加し、著名な仏教大師のヒヤンギャムツォは蒙蔵委員会副委員長に就任したこともある。

 

第3、ダライとパンチェンを冊封し、その霊童転生と坐床式典を主宰した。民国初年、清朝に名前と号の使用を停止され、インドに亡命した第13世ダライは民国政府に帰国の意向を表明した。この点を考えて、袁世凱は1912年10月28日に大総統命令を発し、ダライ・ラマの名前と号を回復した。間もなく、第13世ダライはインドからチベットに帰還した。チベット内部の矛盾を緩和し、第9世パンチェンの国家統一擁護への貢献を表彰するため、袁世凱はまた1913年4月1日に「大総統パンチェン冊封命令」を発した。

 

1933年12月、第13世ダライが円寂し、チベット地方当局は歴史的慣例に従って中央政府に報告し、国民政府は第13世ダライに「護国弘化広慈円覚大師」の号を追贈し、蒙蔵委員会の黄慕松委員長をチベットに派遣して弔問させた。1938年、摂政のラチェン活仏の主宰の下で、宗教のルールに基づいて、青海で第13世ダライの転生霊童ラムデンチュを探し訪ねた。1940年2月5日、国民政府は命令を出し、「青海の霊童ラムデンチュが抽籤を免除し、第14世ダライラマに就任することを特別認可した」。中央政府特派代表の呉忠信氏とチベット摂政のラチェン活仏は第14世ダライ・ラマの坐床式典を共に主宰した。1937年12月、第9世パンチェンはチベットに帰る途中、青海で円寂した。国民政府は「護国宣化広慧円覚大師」の号を追贈し、考試院の戴伝賢院長をガンズェに派遣して弔問させた。1949年初め、国民政府の特使は青海のタル寺で行われた第9世パンチェンの転生霊童の祝典に参加し、チタンを第10世パンチェンに選ぶことを政府が保証すると発表した。8月、蒙蔵委員会の関吉玉委員長は国民政府の特使として、青海に赴いて第10世パンチェンの坐床式典を主宰した。

 

第4、チベット上層部の僧侶と俗人を国家管理に参加させた。民国時期の歴代の国会、国民政府時期に開かれた毎回の国民大会はいずれもチベット地方の代表が参加した。例えば、1946年11月15日、国民大会が南京で開幕し、12月25日に閉会した。この大会は憲法を制定するために開かれたもので、一般には「憲法制定国民大会」と称されている。この会議にはトタンサンピ、ジジンメら17人のチベット代表が出席した。

 

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