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現在位置: 2010年 上海万博推介

移民都市を支えた「バラック地区」の今

 

陳筠=文

上海は典型的な移民都市である。20世紀初頭、生活に困窮し農村から続々と「大上海」に逃げ込んで来た人々は、なんとか暮らしを立てるため、アシで編んだむしろを屋根に、モウソウチクを柱にした簡単な住宅を川岸に建てて住んだ。川岸に並ぶ粗末な住宅は「地滾龍」と呼ばれたものだ。解放後、それぞれのバラック地区は改造され、かつて地方の農村から来た人々の子孫は、自分の労働者住宅や店を持つようになり、都市生活は豊かなものになっていった。今日、都市は中国の大部分の農村にとって、仕事、教育、医療、生活の便宜に恵まれた場所であり、人を引きつける魅力を持っている。地方から上海へやって来る若者はまるで地下水脈のように絶えることがない。そのなかでも、資金を持たない農村の人間にとって、都会の片隅にあるバラック地区に居を構えることは、人生における一つの踏み板なのである。都市に飛び込んできた彼らは、まだ理想とは大きなへだたりを残した場所に住んでいる。

記憶のなかのバラック地区

通りの上に差し出された洗濯物は長い間上海の風物詩となってきた(東方IC) 蘇州河北岸の小さな通り、三秦路の1980年代の様子(東方IC)

蔡翔氏と李其綱氏は、ともに地方からやって来た人の子孫であり、普陀区の蘇州河北岸のバラック地区で育った。そこは、上海でも最も有名なバラック地区「三湾一弄」(潘家湾、潭子湾、朱家湾の三湾と薬水弄のこと)だった。

汚れにごった川面を滑って接岸する小さな木造船。ふるさとを遠く離れ上海にやって来た一組の男女は、下船すると岸にむしろでバラック小屋をこしらえる。彼らが私の祖先、私の「半分の都市住民」の祖先なのだ。――蔡翔『底層』より

上海大学文学部大学院の蔡翔教授によれば、山東省や江蘇省、安徽省などの農村からやって来た人たちは、蘇州河に沿って東に向かって進み市内に入り、蘇州河北岸に住んだ。彼らの多くは蘇州河沿いの工場で働いたり、砂利運搬や野菜売りなどの底辺の仕事に従事し、「浜北人」「蘇北人」などと呼ばれた。

一方、黄浦江両岸のバラック地区に住んだのは、波止場で荷役仕事に従事する底辺の労働者だったが、戦争で住む場所をなくした農村の難民もかなり含まれていたという。

南岸には一列に、工場やさまざまな倉庫が数キロも並んでいた。そして北岸にはバラック地区や石炭販売所、盲腸のように忘れ去られた潘家湾支路が続いていた。両岸の地色は鉄の色合いで、それはバラックのつぎ当ての色だった。早朝や夕暮れ時には、蘇州河はゴッホの使うパレットを思わせた。河と岸が対峙し、色彩が対峙の緊張感を誇張して見せるのだった。――李其綱『私の蘇州河』より

『萌芽』雑誌社の副編集長・李其綱氏の説明によれば、上海のバラック地区はおよそ二つの状況に分けられるという。一つは、自然の村落をよりどころに発展してきたものである。1949年末時点で、上海に200戸以上が集まるバラック地区は300以上あり、合計で20万戸以上、人口は100万を超えており、当時の上海全体の人口400万人の3分の1に迫っていた。

バラック地区の生活は騒がしくにぎやかで、毎日芝居の出し物を演じているようだった。河辺では女性たちがおまるを洗い、老人たちが竹の番号札と水桶を持って一つしかない蛇口に長い列を作っていた。里弄ではホルモンの分泌が旺盛な若者たちが集団で乱闘を繰り広げ、子どもたちは蘇州河でのんびり遊んでいた……。

こうした記憶は、蔡氏と李氏の記憶の奥深くに刻み込まれている。彼らは「北浜人」を自称し、産業労働者の末裔であり、友だちでもあるのだ。蔡氏がバラックに住んだ期間がそれほど長くないとしても、である。

上海では解放後、労働者階級の住宅環境改善に多くの予算をつぎ込んだ。1950年代初頭には「2万戸労働者住宅」を建設、滬西工業区と滬東工業区付近のバラック地区を労働者新村へと造り変えた。蔡少年は、このときに両親とともに新村に移り住んだのである。

整然とした労働者新村では、各戸にトイレ、キッチンがあり、蔡少年に大きな衝撃を与えた。彼がそれ以前に知っていた住居というものは、狭い、暗い、人が絶えず外に向かって空間を求める場所だった。東に棚をしつらえ、西にレンガを積み、上に向かって屋根裏部屋を造るなど、生活上の欲求を満足させていくものだったのである。

新天地は代表的成功例

しかし、1950年代のバラック改造の範囲は限定的なものだった。1949年から70年代末までの30年ほどの間に、上海のバラック住宅は部分的には取り壊され新たな住宅に生まれ変わったが、全体として減少することはなく、むしろわずかながら増加したのである。1979年、上海市の区部及び周辺のバラック住宅が占める面積は450万4000平方メートルに達し、開放初期を上回っていた。これらの住居や周辺の環境は極めて劣悪で、公共設備も整っていなかった。

80年代、90年代になり、不動産開発が加速するようになると、上海のバラック地区再開発にも拍車がかかった。最大のバラック地区だった潘家湾、潭子湾の両地区は完全に消滅し、「中遠両湾城」という上海でも指折りの高級アパート地区に生まれ変わった。虹口最大の虹鎮バラック地区の一部も「瑞虹新城」になった。

そして今日、最も人々に評判のいい改造例が上海新天地である。改造後、かつてのバラック地区は、上海の流行文化のランドマークになり、同時に上海文化的DNAを残す場所として広く知られている。

上海の万博開催が決まると、それは浦東と浦西のバラック地区にも大きな変身のチャンスを与えることになった。万博会場を訪れた人は、白蓮涇公園の姿を見て、7、8年前までそこには大小64もの里弄があり、2人が横にならなければすれ違えず、傘を開くことさえできないほど狭かったことを、想像もできないだろう。「道はでこぼこ、灯りはつかず、水はよどみ、風も防げない」という典型的なバラックで、住民は勝手に増築をし、通りにはいつ乾くかわからない洗濯物が翻っていた。雨風の強い日には、部屋はまるで難破船のような状態だった……。

『萌芽』の副編集長として、李氏はバラック地区に対する胸いっぱいのノスタルジアを抱いている。この上海灘の作家は、今でもバラック地区の記憶と感情について執筆し続けている。彼も蔡氏も、バラック地区は上海の陰の一面であり、この都会はそれを忘れ去ろうとしているようだと語っている。

しかし、陰であるとしても、バラック地区は現在も完全に消えてしまったわけではない。依然としてこの都会の片隅に息づいているのである。数日前の大雨の日、多くの人々が「難破船」のなかにいたことは、まぎれもない事実なのである。

現在の蘇州河岸。高層ビルが連なる(東方IC)

変わりゆく都市住人

楊浦区の杭州路は古びた、不潔でさえある小さな通りだ。この世の天国・杭州の文字がもたらすイメージとは、大きくかけ離れている。ここはバラック地区で、ここの住民には代々同じ部屋に住んできた人が多く、蚊や虫に食われる生活を続けている。

見かけはさっそうとしているオフィス勤めのホワイトカラー王怡(仮名)さんは、生まれてこのかたずっとここで暮らしてきた。スーツであろうとカジュアルであろうと、彼女は足があらわになるスカートは穿かない。なぜなら彼女の足には名前も知らない虫にかまれた跡がびっしりとついているからだ。たくさんの褐色の跡は時間がたつに連れて薄くなるが、完全に消える前に、また彼女の両足にはさらに多彩な彩りが加わっていく。

王怡は自嘲気味に話す。この足の濃い色は、彼女の暗い人生のベースカラーなのだと。彼女と両親はバラック地区の取り壊しを待ってきた。しかし、待っても待っても連絡は来ない。今は、大部分のご近所は次第にここを離れてしまい、代わりに地方から来た住人が増えている。彼らの多くは近くで臨時仕事に就いている。レストランでウエートレスをしたり、市場で野菜を売ったりしているのだ。また、地方の大学を卒業し上海の職場に就職した新人もいる。彼らはバラック地区の低品質な都市生活に甘んじているが、そのぶん生活資本を節約しているのだ。

バラック地区で育ったためだろうか、王さんはいまどきの上海の若い女性には見られない強靭さを持っている。彼女は古い部屋を貸し出し、両親とともに2LDKに引っ越すことはせず、このまま古い部屋に住み続けるという。「バラック地区の古い住宅は貸してもいくらにもならないのに、一般の2LDKは少なくとも月2000元くらいはするわ」

このバラック地区生まれの「80後」は、他の地区からこの都会にやって来る人々と同じように、バラックに住み、頑張っていこうと考えている。いつか、素晴らしい住居を手にし、そこから美しい空を眺める日を夢見て。

 

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