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孫文と触れ合った千人を超す日本人たち

 

光部愛=文 賈秋雅=写真

孫文は長期間、日本に滞在し、日本を革命の基地としていた。その間に、多くの日本人が孫文と接触し、交流した。宮崎滔天や梅屋庄吉、犬養毅らが孫文の活動を精神的にも財政面でも支えたことはよく知られている。しかし、名もない日本の庶民たちが、孫文の生活の面倒をみたり、宿泊先を提供したり、講演会や歓迎会に出席したりしたことはあまり知られていない。そうした無名の日本人の記録が残されていることがこのほど明らかになった。その数はなんと千人を超す。

日本にたびたび亡命

孫文は1895年、広東省広州で清朝政府に反対する最初の武装蜂起を企てたが失敗、香港へ逃れたが、清朝政府は孫文に花紅銀1000元という多額の賞金を懸けてその行方を追及した。このため孫文は日本に亡命。横浜で華僑らを組織して「興中会」の分会をつくるなど、日本で活動した。このため日本政府から「要視察人物」として行動を監視されていた。

1897年、孫文は再び来日して、宮崎滔天や犬養毅らと交流、フィリピン独立戦争の指導者、アギナルドから武器購入を依頼される。しかし、武器を積んだ布引丸が嵐にあって沈没し、失敗した。

1900年に、孫文は広東省恵州で再び蜂起する。孫文は台湾に行き、指揮をとった。当時、日本では山県内閣から伊藤内閣になり、伊藤博文首相が孫文の台湾での活動を禁ずる方針に転じたこともあって蜂起は失敗、孫文は再び日本に戻った。

欧米歴訪の旅から日本に戻った孫文は1905年、東京で革命諸派が合流した「中国同盟会」を結成。1907年には第二次湖南事件(萍瀏醴の役)に呼応して活動したため、孫文は清朝の要請を受けた日本政府から国外追放処分を受けた。

1911年に辛亥革命が起こり、孫文は米国から急ぎ帰国。1912年には南京に成立した中華民国臨時政府の臨時大総統に就任した。しかし約2カ月後には袁世凱に地位を譲り、その後反袁世凱の兵を挙げるが失敗、再び日本に亡命する。

1914年、孫文は東京で「中華革命党」を結成し、袁世凱に対抗した。

こうした孫文の日本での活動は、日本の当局が放った密偵などによって逐一、監視されていた。彼らは孫文の行動を見張り、孫文と接触した人物を細かく記録していた。その記録が報告書として残されていた。

間もなくリスト刊行

当時の外務省や軍の残した報告書や当時の新聞などをもとに、神戸市垂水区にある「孫文記念館」が、孫文と接触した日本人のリストを作成中である。こうした報告書は、2001年に開設された日本の国立公文書館アジア歴史資料センターでデジタル化されている。これはインターネットで国内外の誰でも閲覧することが可能で、その存在は研究者の間では知られていたが、資料が膨大で、これまで十分には整理されてこなかった。

「孫文記念館」では、辛亥革命百周年の節目となる今年11月の発表を目指し、2009年からこのリストを整理してきた。間もなく刊行される『孫文・日本人名録』には、孫文とつながりがあった当時の日本人の氏名、生没年、出身地や孫文たちといつ、どこで、どんなかかわりを持ったかなどの情報が、可能な限り収録される。また日本人だけでなく、当時日本にいた華僑約800人のリストも収められるという。

孫文が三上豊夷に贈った書『革命』(孫文記念館所蔵) 警護にあった柴田善兵衛に送った書(孫文記念館所蔵)

 

人民中国インターネット版 2011年10月10日

 

 

 
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